第3回 個性丸出しの表現がにょろにょろと出てくる(その1)

 奈良のたんぽぽの家のアートサポーター養成講座では、書家の南明容氏がたんぽぽの家で書のアートワークを提供している様子と、僕自身が実際にガムテープでがんじがらめにされて不自由な状態で筆を運んで文字を書くという体験、アートカウンセラーのサイモン順子さんの絵のワークショップを体験した。どちらも筆で文字を書く、絵を描くとはこうあるべきという自分に染み込んでいる縛りから解放されるきっかけになった。さっそく風の工房で仲間たちに絵を描く、文字を書く、粘土を自分の感覚に任せてこねる、という場面を提供していくと、僕が無意識にしがみ付いていた『こうあるべき』的な縛りを、仲間たちははなから『そんなの知らん!』とばかりに個性丸出しの表現を見せ始めたのだ。

 Mさんは知的障がい、右半身まひ、てんかん発作、場面緘黙(※)など重複障がいを抱える男性だが、僕からの冗談やふざけあいにはニヤニヤしながら楽しんでくれる人だ。実際に墨書の場面でどんな文字を書こうか、と聞いてもニヤニヤするばかりなので『ありがとう』とひらがなをボードに書いて『このありがとうという字を書いてみる?』と言うと、やはりニヤニヤしながらボードを見ながら自由の利く左手で筆を持って実にたどたどしく筆を運んだのだ。なんというバランスだろうか? いわゆる習字のお手本とはまるで違う文字だが、見る者は思わずにっこりしてしまう。その後Mさんは様々な墨書の作品を僕とのやり取りから生み出し、あちこちで発表して高い評価も得た。いくつかの障がいを抱えながらむしろそれゆえに、Mさんしか表現できない独特な個性があることを実感したのである。もう天才!

 Nさんは『頑張るぞー』が口癖の女性だった。僕が汗びっしょりになって工房の草刈りをしていると窓から顔を出し、『セキさん頑張れよー』と言い、Nさんはボーっと立っている。決して手伝ってはくれない。『どこががんばるんだ?』とむかっ腹が立つも憎めないNさんだ。ある時Nさんにどんな字を書こうか?と聞くと『頑張るって書きたい』という。いつもの口癖だ。意地悪な気持ちになって『今日は頑張らないって書いてほしいなあ』と言うと『いけないんだよ。そんなこと言っちゃいけないんだよ』と拒否をするので、Nさんに向かって土下座をして『お願いだから書いてほしいのです』と手を合わせて頼むと、Nさんはしぶしぶとたどたどしく書き始めた。そこに現れた墨の線は見事にしぶしぶ書いてやったぞ、こんなこと言っちゃあいけないという気持ちが素直に表れていたのだ。もう驚くばかりだ。鳥肌もんだ。
 考えてみればNさんに限らず障がいのある人は小さいころからずっと『頑張れ!』と言われ続けている。学校でも『頑張ろう』という標語が氾濫している。Nさんにしてみれば頑張るとはどういうことなのかよくわからず、『頑張る』と言えば周囲から褒められることを学んできている。頑張らなくていい、NさんはNさんのままでいいと思うのだ。

 工房の活動が広く知られ始め見学に来る人が増えてきて、ある日ボランティアのおばさんたちが研修として来られ、『がんばらない』の作品を怪訝な目で見、帰り際『みなさん頑張ってね』と言って去ろうとしたとき、Nさんは『おばちゃんもがんばってねー』と言ったのだ。
 『がんばらない』の作品があちこちで評価を得たころのこと、僕の妻が病気で入院していたのだが、妻は友達が心配して見舞いに来てくれるのはありがたいけど、来ないように伝えてほしい、と言う。結構重篤な状態だった(その後42歳で天に召される)彼女は『がんばれって言われるのがつらい。これ以上がんばりようがないじゃん』という。僕は返す言葉がなかった。何気なく『がんばろう』という言葉は時には本人をつらくさせることもあるのだ、と深く心に刻んだときだ。妻が逝ってしまってから、僕は入院先だった病院の殺風景さを思い出し、工房の仲間たちの作品は病と向き合う人たちの心を癒す力があることを確信し、県内のいくつかのホスピスに作品を飾ってもらえないかと歩き回って、3か所で飾らせてもらった。当時、諏訪中央病院の院長だった鎌田實氏のもとへも作品を持って話に伺うと、快く承諾をいただき、その中から何点か買い上げて院内に展示してくださった。その時『がんばらない』の作品を『この言葉は病院ではまずいですかねえ』とおそるおそる先生に見てもらったところ、『これだよ、これ待ってたんだ』と先生は即買い上げ、病院の玄関ホールのど真ん中に飾ってくれた。先生は『がんばるのは医療者であり、患者さんはゆったりとありのままでいてほしい』と言う。その後、鎌田先生は『がんばらない』という本を書き、全国的に『がんばらない』の言葉が広がった。
 ほかにも風の工房では自閉症のTさんやJ君、そのほかの人でも文字や言葉の意味はおそらく理解できていないだろうが、ボードに書かれた文字を写し取る能力があり、言葉の意味をできるだけわかりやすく伝えながら墨書に取り組んでもらった。それぞれにユニークで個性的な文字が見られた。Tさんは瞬間的に筆を走らせ、書き終わると『書いてやったぞ!』とばかりに筆を放り投げてどこかへ行ってしまう。しばらくすると戻ってくるのだが、僕は飛び散る墨を浴びながらその墨の走りに驚き、思わず『ありがとうございました』とうなだれるばかりだった。

 多分彼らは今まで墨書なんていう経験はほとんどなかっただろう。そして普段も文字を書くということはほどんどない。それなのにこんな表現を平気でしてしまう。もううらやましいやら妬ましいやら。普段の暮らしでは支援者のサポートが必要な人たちだが、表現することにはあまりにも自由だ、裏返せば『なんて僕は不自由なんだ!』と思い知らされたのだ。(つづく)

第2回 明るい展望が見えたとき

 風の工房の在り方に思い悩んでいたころ、1994年奈良県にあるたんぽぽの家を中心に『日本障害者芸術文化協会』(のちに『エイブルアート・ジャパン』となる)という団体が設立された。障害のある人の表現をアートとして評価を高めていこう、アートを切り口に福祉のありよう、そしてこの地域社会のありようを変えていこうという趣旨が謳われていた。誘われるままに入会し、そこから送られてくる情報からは、ヨーロッパでは精神障害のある人のアートが現代アートの作家にかなり影響を与えているとか、日本国内のあちこちの取り組みなどが伝わってきた。そして風の工房の余暇時間などで何気なく仲間が描いていた絵と、あちこちで評価を得ている作品とどこがどう違うのだろうか? いやなかなか仲間の表現したものも十分いけてる、と単純な僕は思ったのだった。その年たんぽぽの家で開催された障害のある人のアート活動を支えるためのワークショップに参加し、様々な考えや取り組みを学び、つながりもできて、持って帰ってきたものを風の工房のこれからの活動に取り入れ、アート活動をメインにしようと確信したのだった。

 それまでの僕は障害のある仲間の表現したものは、稚拙な表現であり、発達年齢の低い段階の表現として見ていたのだった。それは当時自分が発達心理学の専門書を読み漁っていたこともある。また、芸術、美術、アートという世界は、まさに学校時代の美術教育で刷り込まれたあの教科書の世界であり、表現技術を極めたうえで見られる有名な作品こそがアート、特別な世界のことだと思い込みをしていたのだ。僕自身が従来の美術の枠組みに囚われていたのだ、仲間たちの表現する世界もアートだと言っていいんだと、気付いた時だった。

 粘土の作業場でのデキゴト、そして日本障害者芸術文化協会から得たものは、思い悩んでいた僕に、風の工房の日々の活動のメインにアート活動を据えようと決心させたのだった。それからというもの風の工房の収入を目的とした、いわゆる作業活動を徐々に減らし、アート活動(以後表現活動という言葉にする)を一人一人の仲間にあったものを考え、提供し、仲間が興味を示さなければまた別の手を考え……と、個別に表現活動の在り方を手探りで探していった。いつの間にかアートザンマイの毎日となっていたのだ。(続く)

第1回 つらつら振り返って

 『なんで、あなたは障害のある人のアート活動を始めたの?』という質問をよく受ける。しかし、だんだんと記憶が薄くなって、『さていつから?』『どうしてだっけ?』が曖昧になっている。まあ、その前に、なんで僕は障がい者福祉の仕事に足を踏み入れたのかから始めなければならないかもしれないが、そのことはいずれ触れることにする。

 今から30年ほど前、僕は職員として所属していた社会福祉法人かりがね福祉会のバックアップのもと、障がいのある人5名と自分の家族とが実験的に小規模で共同生活をする『風の工房』を開設し、活動をはじめた。当初はパンの製造販売、農作業、陶器の製作などを通じ、それぞれの活動において、障がいのある仲間とそれぞれにできることを協力しあっていくことで、いずれはその集団として自立した生活を実現しようと夢見ていた。しかしそんなに甘くはない。収益はさほど上げられるわけもなく、次第に僕は仲間たちに『きちんとやって!がんばって!これじゃあ売れない!』といった言葉を投げかけるようになり、対等な関係、と言いつつ現実はひどい上から目線で仲間を見ている自分になっていった。日中だけ『風の工房』に通ってくる仲間も増えていたこともあるのだが、『こういう状態って自分が望んだことなの?』と自問自答する日々が続いた。何より仲間たちが僕の顔色をうかがうようにもなり、これじゃあ僕は独裁者じゃん。この小さい集団として自立することばかり求めていて気が付いたら間違った方向に走っていたのだ。

 ある日のこと、粘土の作業場でお皿や小鉢とかの器を作っていたのだが、それはどう考えても売れるシロモノじゃあないと、ぶつぶつと文句を言って、仲間が作っていた器をつぶしていた。仲間たちはそんな僕の顔色を窺っている。その時の彼らが作るそのいびつな形は本当にいけないのか? それは僕自身が売れるものとはこんなもの、という勝手なイメージを持っていたからであり、なんと狭量な考えだろうかとふと考えた。ちょうどその時、僕は画家の田島征三さんが滋賀県の信楽青年寮に入り込んで、そこで生まれる粘土の造形を高く評価して本にした、『ふしぎのアーティスト』という本を読み始めたときだったのだ。田島さんは青年寮でそこの寮生さんが作り出したものを、職員がいびつだとか売れそうもないからと評価していなかった現場を見て、これこそがおもしろいカタチだし、アートとして素晴らしいと職員さんたちに伝えて以来、素晴らしい造形作品が生まれ始めたことを書いている。全く僕がやっていたことを指摘されたように思い、鈍い自分の頭を殴られたようだった。

 『こんなつまらない粘土はやめようか。』と何気なく仲間に伝えたところ、彼はうんうんと頷いて、その作業場を出ていってしまった。僕の勝手な価値基準を彼らに押し付けていたことを痛烈に問われた瞬間である。その場に残された僕はしばらく呆然としていた。このジケンは今でも鮮明に思い出される風景なのである。第2回目につづく

※『風の工房』では障がいのある人を仲間と呼んでいたが、今の時代なら利用者と言われ、職員は支援者と言われる。支援者と利用者の関係……どこか違和感を持つ僕である。

『バリアフリーなあそびば』へようこそ♡Part2

「日常生活の中の彩り」
と聞くと、みなさんはどんなことを思い浮かべますか?

ちょっとリッチなスイーツ
かわいいがつまった雑貨屋さん
お気に入りのお洋服
内装がすてきな宿でくつろぐ旅…

わたしは、
普段の生活よりちょっとだけ背伸びして味わう、非日常のことを思いうかべます。

でもそんな、キラキラした非日常が味わえない人生を送るしかなかったら?

5年前、わたしは養護学校の先生をしていました。
車いすに乗っていたり、医療的なケアを必要としたりするけれど、
小学校の教科書を使って学ぶ普通の小学生たちのクラスの担任をしていました。

その中の1人Aちゃんは、
脳動静脈奇形から脳内出血を起こし、
その後遺症のため医療的なケアが必要になり、養護学校に転校してきました。

Aちゃんは、何の前ぶれもなく、
登校班で通う通学路で脳内出血を起こして倒れてしまいました。
一命は取り止めたものの、半身に軽い麻痺が残り、
出血部が延髄だったために嚥下反射が起こらなくなってしまい、
口からごはんを食べられず、
胃に開けた穴(胃ろう)からペースト食を注入していました。

Aちゃんを含めたクラス全員で出かける時に困るのが、食事場所。
Aちゃんが食べられるミキサー食を提供してくれるレストランがないのです。
行くのは結局「いつものとこ」。
選ぶ余地がないのです。

「嚥下障がいがあっても食べれる、ちょっとリッチなスイーツがないなら、わたしたちがつくればいいじゃん!」

新型コロナウィルスが流行しだした2020年。
なかよしのRurukaとオンライン飲み会をしていて、なぜかそんな話になりました。

わたしの中でずーっと引っかかっていた、
Aちゃんの「食事問題」。
ある日いきなり「障がい児」になってしまったAちゃん。
それは特別なことではなく、
誰しもが病気や老化によって「障がい者」になるかもしれない。
そうなったら不便かもしれないけど、
でも、
「食べたいと思ったらちょっとリッチなスイーツが食べられる」
「行きたいと思ったらどこにでも遊びに行かれる」
障がいの有無にかかわらず、
それが「当たり前」なインクルーシブな社会をつくっていきたい。

8時間飲み続け、
画面越しにそんな熱い話をしたわたしたち。
よっぱらったノリで(!?)
「障がいの有無にかかわらず楽しく生きて生かれる社会を目指す」団体【バリアフリースタイルルルカ】は誕生したのでした。

わたしたちが作ったデザートは、
信州産のフルーツや野菜を材料にして、
嚥下障がいがあっても食べられるよう加工したものです。
水分を加えてかたさを調整すれば、胃ろうから注入することもできます。
そしてこだわったのは、「インクルーシブなこと」「見た目が美しいこと」。
家族みんなが同じおいしく食べられる味や食感に仕上げ、
かわいい見た目にもこだわりました。

個人からの注文はもちろん、
「コロナ禍で感染リスクを避けるため、校外学習を中止せざるを得なかったけど、クラスの子達にせめておいしいものを食べさせたい」
という養護学校の先生からもご注文をいただきました。

今わたしたちが力を入れて取り組んでいるのは、
「バリアフリーなあそびば」と称した
障がいの有無にかかわらずあそびに行くことができるマルシェイベントです。

コロナ前から
「マルシェイベントってたくさん開催されてるから行ってみたいけど、障がいがある子を連れて行きづらいし、
障がいがある子が楽しめるかどうか…」
という声を聞いていたので、
「じゃあそんなイベントつくったらいいじゃん!」とこれまたオンライン飲み会のノリで(笑)、
2022年、第1回「バリフリマルシェ」というイベントを地元千曲市で開催しました。

すぐ上の写真は、2023年1月に安曇野市のあづみの住宅公園で第3回目の「バリフリマルシェ」を開催した時のもの。

わたしたちが運営に携わったイベントは、この安曇野で5回目。
回を重ねるごとに賛同してくださる方が増え、
地元千曲市を飛び出し、長野市、安曇野市、諏訪市…といろいろな場所で「バリアフリーなあそびば」をつくる機会をいただいています。

地元千曲市や近くの長野市でやった時は、代表西條の娘の友達や、わたしの養護学校時代の教え子がたくさんあそびに来てくれたけど、
遠い安曇野ではどうなんだろう…
と不安もありましたが、
老若男女、たくさんのお客様があそびに来てくださり、
その中に車いすに乗った子や、
補聴器をつけた子、
病気があるのかな、と思われる子を何人も発見しました。
「うちの子には知的障がいと自閉症があるんです」と話しかけてくださったママさんもいました。

障がいのある人とない人が、
当たり前のように場を共有している。
そんな光景はカラフルに輝いているようで、いつもわたしの胸を熱く震わせます。

今わたしは小学校で発達障がいのある子ども達が通う通級指導教室の先生をしています。
そして、特別支援教育コーディネーターの仕事をしています。
わたしの仕事は、発達障がいのある子と在籍学級とを、必要な支援とをつなぐことです。

地域の小学校にいると、
養護学校はまるで遠い世界のようです。
でもAちゃんや、
Aちゃんのほかたくさんの、
養護学校でかかわった子ども達のことを今でもよく思います。

養護学校にいる子ども達と地域をつなぐこと。
それが養護学校から小学校に異動したわたしのミッションだと思うのです。
地域のみんなに養護学校に通う子ども達のことを知ってもらって、
当たり前のように共に生き、
みんなが障がいの有無にかかわらず楽しくカラフルに輝ける社会をつくっていかれたら…
そんな願いをこめて、今日もわたしは帰宅後22時、パソコンに向かって作業を始めるのでした。

さあ皆さん、ようこそ『バリアフリーなあそびば』へ♡

『バリアフリーなあそびば』へようこそ♡

南長野運動公園に集まる人、人の波…
手にはかわいい雑貨に、すくった金魚
とある子が持つのは風船にわたあめ
親子でお弁当やスイーツをほおばる姿
お客さんの中には車いすに乗る子や、ぴょんぴょん飛び跳ねる人も
ここにはいろいろな人が集まっているけれど、みんな笑顔♡

私たち【バリアフリースタイルルルカ】は、「障がい児育児を楽しく♪」することを目的に2020年に立ち上げられた団体です。

冒頭に書いたのは、【バリアフリースタイルルルカ】が2022年10月30日に開催したイベント『オリスタマルシェ』での一コマ。
その日、南長野運動公園に現れたのは『バリアフリーなあそびば』。

「ママー! ドッヂビー楽しいよ!」
(ドッヂビーは布製のフライングディスクのことです)
そして走ってきたのは、3年生になった娘。
補聴器をつけて、少し短い腕、ひまわりのように眩しい笑顔!
娘との『バリアフリーなあそびば』を一番願っていたのは私。
私は、しみじみと【バリアフリースタイルルルカ】の始まりのことを思い出しました。

【バリアフリースタイルルルカ】の原点は9年前。
私の人生においてたくさんの学びを与えてくれる、娘の誕生がきっかけです。

娘は、9年前「アントレ―ビクスラー症候群」という病気をもって生まれてきました。
とても珍しい病気で、今まで同じ病気の方にお会いしたことがありません。
(バリアフリースタイルルルカの活動を続けていたら繋がれるかな?とちょっと期待している親子です♪)

1人目が健康で生まれてきたから、2人目も健康で生まれてくるものだと思っていました。
しかし妊娠時に異常がわかりました。
出産できるのは、安曇野市の長野県立こども病院しかないと、こども病院へ転院することになりました。
そして誕生した娘は、NICUへ。

「私は、この先きっと仕事はできないだろう」
「旅行なんて一生できないだろう」
すべてができないと決めつけていました。

でも医療スタッフの皆様に支えられ、2カ月後、娘はNICUから退院し、家で家族と過ごすことができるようになりました。
そして、2年後。娘は保育園に入園しました。
それから4年後。保育園の先生やプランナーさん、ママ友たちに加え、市の心理士さん、教育委員会の相談員の先生、進学先の先生たちなどに支えられ、地域の小学校に入学することができました。

今まで娘が受けた手術は4回。今も検査や通院を続けています。
でも娘を、私たち家族を支えてくれる方々はもとより、
いつもニコニコ毎日本当に楽しそうに生活をしているそんな娘の笑顔に支えられています。
娘は、生まれてきたことが奇跡。
今こうして一緒に笑ったり、出かけたり、話をしたり、家族で一緒に生活を共にできることは当たり前ではないと感じています。

だからこそ娘には明るく楽しく彩られた人生を生きてほしい。
障がいがあるからとあきらめるのではなく、どうしたらできるのかを考え、いろいろなことに家族で挑戦してきました。
そして、障がい児育児を楽しむ心の余裕が生まれてきました。
NICUで泣いていた私から障がい児育児を楽しむ私へ♡
「障がい児育児を楽しく♪」【バリアフリースタイルルルカ】のはじまりです。

【バリアフリースタイルルルカ】の最初の一歩は、食のバリアフリーの活動から始まりました。
「食べることの困難さがある子でも、おいしく楽しく食べられる工夫をしたい」
そんな思いで、ちょっと特別な日にみんなで食べられるインクルーシブ・フードを開発したり、使いやすい食器やカトラリーの紹介をしたりしてきました。

特別支援学校様からオーダー品インクルーシブ・スイーツ
フルーツ王国NAGANOの美味しいフルーツをたっぷりインクルーシブ・フルーツパフェ
(インクルーシブ・スイーツとは・・・えん下障害があるなしにかかわらずみんなが食べられるスイーツです)

私の子育てにおいて「食べること」はとっても重要でした。
娘と12歳違いの息子の「辛い反抗期を乗り越えるためには胃袋を掴め!!」と先輩ママから教えられ、毎日おいしいご飯をつくってきたおかげで、反抗期を終えた息子と仲良し親子でいられる今があると思っています。
反抗期の息子に「クソババア」と舌打ちされましたが、
クソババアと舌打ちしながらも、おなかは空くのだ!
(実は胃袋を掴む♡別エピソードもありますが、恥ずかしくて書けないので、聞きたい方はお会いしたときに聞いてください(o^―^o) 喜んでお答えします)

息子と対照的に娘の「食べる」ことは一筋縄ではいきません。
娘は上腕骨癒合で生まれつき肘関節がなく、食事をするのに工夫が必要です。
食べるのが苦痛になっていた娘にどうにか楽しんで食べてほしい♡食べるって楽しいを伝えたい♡と、一緒にご飯をつくって食べることを始めました。
一緒につくって食べるって最高なコミュニケーションの時間。みんなにそんな経験をして欲しくて料理教室【Ruruka kitchen】を始めました。
(娘は見事に今では私の良きアシスタント候補に成長。正式アシスタントになるにはまだまだ私の特訓が待ち受けています。)
さて、そんな私の教室に来た、食べること大好きな生徒の1人が特別支援学校の先生でした。
「障がいがあっても、おいしく食べられるっていいよね、大事だよね!」
お酒を飲みながら意気投合!
コロナ禍の2020年、【バリアフリースタイルルルカ】を立ち上げました。

食だけじゃなくて、
障がいの有無にかかわらず衣食住に潤いと楽しみを。
日々の衣食住だけじゃなくて、
障がいの有無にかかわらず特別な日常を。
冒頭に紹介した、障がいの有無にかかわらず楽しめる『バリアフリーなあそびば』づくりが
今私たち【バリアフリースタイルルルカ】が力を入れて行なっている活動の一つです。

娘を育ててきた9年間、たくさんの方に支えられてきました。
その方々に感謝を伝えたい。
私と同じような環境にいて、悩んでいるご家族に、私の経験を伝えたい。
そして、私たちを取り巻く社会に理解を深めてもらいたい。
そんな思いが今の私の活動の原動力です。

さあ皆さん、ようこそ『バリアフリーなあそびば』へ♡

共に歩む

娘が18歳になった。

「ああ、娘が生まれた頃もこんな空だった」と見上げる空は
真っ青な空。

18年前、娘がダウン症だと診断を受けたときからずっと、考えていること。この子はどんなギフトを持って生まれた来たんだろう?


 
日本国内外さまざまな場面で活躍しているダウン症の方々を目にするたび
この子にはどんなことが向いているのかな。どんなことが得意なのかな。

興味がありそうなことに挑戦してきたことがいくつかあり、長いものでは10年、15年と続けてきたものも。8歳の時から毎年夏休みの制作として続けてきた書と色彩表現を組み合わせた書画?の作品づくりがそのひとつ。きっかけは、小学二年生の夏休み。ダウン症の書家・金澤翔子さんとお母様の講演会を、親子で拝聴する機会があった。

その時に翔子さんの迫力ある揮毫を拝見し、帰りの車の中で「わたしも書いてみたい!」とニコニコしている娘。ならば…と取り組んだ作品が「にじ」。はじめての書画(というのだろうか? 画というほどの絵はないのでよくわからない)。夕立の後、空いっぱいに広がる虹を見たときの感動を文字にしてみた。

この「にじ」をたくさんの方にほめていただき、翌年もまたその翌年も…と、その年の娘のマイブームや、思いを言葉にしてみて、書き(描き)続けきた。気がついたら、10年経っていた。

「にじ」
 長野県障がい者文化芸術祭 書道の部 奨励賞受賞
「ゆめ」
「ありのままで」
 長野県障がい者文化芸術祭 書道の部 奨励賞受賞
「和~なごむ~」
 長野県障がい者文化芸術祭 書道の部 優秀賞受賞
「幸」
「翼」
「輝く星」
「私の世界」
 詩画交流展にて審査員特別賞受賞
「夢へのいっぽ」
「私の中の宇宙」
 パラアートTOKYO2022ジュニアの部入選

そして18歳の夏。
今年は「共に歩む」

娘と過ごしてきた18年間。
合併症をいろいろ併せ持ち、これからどんなふうに成長するかわからない、小さな小さな娘を私が守らなきゃ、育てなきゃ、支えなきゃ。と肩にがちがち力が入っていた。

娘の成長ともに、私たちを取り巻く親族や恩師や友人たち、地域の方たちの教えや優しさにふれながら、だんだんと肩の力が抜け、「娘を通して見る世界はそんなに悪いものじゃないかも」そう思えるようになってきている。

時として、迷い悩むこともたくさんあるけれど。
これからも、娘と共に歩んでいけたらと思う。

そして娘と一緒に描いたり書いたり作ったりしていく中で自分自身もまた、そういうことが好きでたまらなかったことを取り戻した。仕事や家事、育児の忙しさにより、長年心の片隅にあったものを。

自分自身の制作もだが、それと同時に幅広い世代のバラエティ豊かな方々とクラフト制作等をする機会が今、形を変えて広がりつつある。
そのひとつが、障がい者支援施設での季節に合わせたクラフトが中心の活動「楽習会」。ご縁をいただいて1年半になるが、まだまだ毎回手探りである。

同じ題材に取り組むにもおひとりおひとり、できることが違う、言葉かけや対応が変わってくる。
施設の仲間たちは「先生、先生」と慕ってくれるけれど、「いやいや、みなさんが私の先生だから」と言わずにいられない。たくさんのことを教えてもらっている。
ひとりひとりのできることは限られているけど、ひとりひとりの作品の良さが合わされば、さらに素晴らしい作品になる。そのために私にできることを探している。

娘がいたからこそ出会えたこの場所。私の親ぐらいの人から娘たちと同じ世代の人まで。
その方たちの人生の一部を、私もまた、「共に歩ませて」もらっているのだと思う。

「いっぽ いっぽ」
2009ねん、12がつ29にち。

あたしのあしだよ。
ぷっくりしていて、かわいいでしょ。
 
だいま、5さい6かげつ。
14,5せんち。

まだまだ ちいさいあしだけど、
このあしで、いっぽいっぽ、あたしのみちをあるいていくんだよ。

写真:しいちゃん 5歳
文:母

竹花 汐音

18歳、ダウン症を持つ特別支援学校3年生。夢はアイドル、ドレスをデザインして作ること、自分のブランドを持つこと、お花屋さん、カフェの店員さん、ライオンになる…などたくさん。5歳で母のデジカメをいたずらするようになり、小学1年生の時に姉の真似をして書初めをしたのが初めての書道。小学2年生の夏から書と色彩表現を合わせた作品の制作を始める。10歳13歳の時に、娘の書、写真と母がつづる文でのおやこ作品展「しいちゃんとみた、空。」を上田市味遊cafeにて開催。

ハートをドリップ

人それぞれ、色んな個性があって、多かれ少なかれ、特性や障がいと呼ばれるものなんか持ち合わせてる。

私も。

ADHDで自閉スペクトラムでHSPの要素モリモリなんじゃないかと思う。
けど、全てを含めて私だし、その人だし。
だからこそ、それぞれのアンテナにビビビッっとくるPointってあるんだと思う。
それは側から見たら???なことであったとしても。

色んなこと全部ひっくるめて、その人っていう感性のフィルターが作られてく。
そして、自然とその人の♡に響くことをドリップして、人生を生きてるんだろーな。と思う。

 
私はアートって何なのか正直分からない。
でも、それぞれの人がドリップしていく全てのこと、その人となり、生き方自体がアートだなぁ。なんて思ったりする。

なのに、ふと気づくと私の中に小さな枠がすぐにできてしまう。
「普通ならこう」「これはこーすべき!」etc…。
でも、それじゃ全然世界は広がらない。
そして、なんだかつまらない。

だからかな。
私は自分の中にある小さな枠をパコーン!と外してくれる存在に惹かれる。
それは、映画の主人公だったり、職場(障がい者支援施設)の利用者さんだったり、息子だったり、心が惹かれる人だったり。

まだまだミミッチィ私はいるんだけど。
それぞれのドリップしたコーヒーを、大切に味わい合えるような人になりたいな。

愛しい世界

アート。
絵・写真・音楽・言葉。

この人の描いた絵が好きだ。という人がいる。
この人の寫す写真が好きだ。という人がいる。
この人の奏でる音楽が好きだ。という人がいる。
この人の紡ぐ言葉が好きだ。という人がいる。

その人達のみている世界が好きなんだ。
その人達がみせてくれる世界が好きなんだ。

 
そして、私はいま
私のみている この世界も 愛おしくて好きだ。

いつからか、気がつけば
この世界はきらきらとやさしかった。

家族、友達、今までの私のまわりのみんなとの時間
りんご畑での作業のなかでの自然からの恵み、智慧
そんなすべてのおかげで
きっと 世界のみえ方は 変わってきたのだと思う。

そして、一番大きなうねりをくれたのは、
やっぱり娘との時間だ。

思いきりゆっくりのペースで成長している
娘との暮らしのなかで
“ゆっくりもおもしろい。”ことを教わり。

育児書も読めず、ただ目の前の娘をみながら、な
娘との暮らしのなかで
“いまここにいる。”ことも教わり。

やっぱり迷惑をかけちゃうこともたくさんある
娘との暮らしのなかで
“ゆるしてもらう。”覚悟ができた。

“出来る”が少なくても、そこで笑っていてくれることで
まわりを癒してくれる
娘との暮らしのなかで
“在る。”を知り、
“ただ在る。”ことの大切さを抱きしめた。

そうしたら
世界はやさしく受けいれてくれた。
やさしく ひろがっていった。
美しい世界を 魅せてくれた。

その後、
息子も産まれ、成長し、ねえねに寄りそってくれる
息子との暮らしもまた
やわらかい世界をみせてくれている。

「お母さん、木に雪がついてきれいだよ。」と
伝えに戻ってきてくれる。

「お母さん、これ好きでしょ!」と
枝についた松ぼっくりを拾ってきてくれる。

みせたい!! あげたい!!と
愛を惜しまず巡らせてくれる。
やわらかい世界をみせてくれている。

そんな風に
子どもたちとの暮らしのなかで
たくさんのひかりを魅せてもらっている。
そして、これからも
たくさんの ひかりを みつけていく。

この 愛しい世界を 抱きしめていく。

一緒にみたい。
みんなにみせたい。を

愛にのせて
表現できたら
巡らせていけたら
それが
“娘と私のアート”なのかな。と。

【ともにいきる】

すべてのアートは軌跡であり、
すべての暮らしは現在である。
未来はどちらもわからない。

 2年前、僕らは小諸市のはずれにある古民家を自分達の手でリノベーションし赤ちゃんからお年寄りまで、障害の有る無しに関わらず誰もが集う居場所を作り始めた。いまだ現在進行形。

 この家には、いつでも用事が溢れている。

 1月。長野県の寒さのピークだ。雪は少ないけど小諸もまた浅間山から吹き降ろす風で耳が千切れそうに痛い。

 みんなの家のメイン暖房は薪ストーブだ。信州カラマツストーブという枯れた松を資源として活用するために開発されたストーブがここでの暮らしに欠かせない。


 デイサービスに行きたいという男性は稀だ。ところがタブノキを利用する男性達は家を出るとき、ワークマンスタイルでキャップを目深にかぶり、送迎車を庭に出て待っている。仕事へ行く気満々。そこに居るのは山へ行って薪を運ぶ働く男の姿だ。

 タブノキはデイサービスとしての機能もあるが、それは暮らしの中の一部の機能。収入源ではあるけれど、僕らは制度を使う人も使わない人もスタッフも地域の方も皆でチームとして用事をこなす。でもやりたくないことはやらない。

 山はどこも荒れている。放置されてしまった松林が台風やマツクイムシで無惨な姿になっている。そこにタブノキのお年寄り達は分け入っていく。お年寄りだけではなく子供達も。地域から来ている方も。丸太を転がし杉の葉を拾う。スタッフ達は夢中でシャッターを切る。

 料理もDIYも遊びも外出もタブノキではすべての用事がごく普通の暮らしの延長にある。それは関係が固定化してしまう、やる側される側という構図を徹底的に解体しているからこその姿。

 撮りためた写真は一日の終わりに全スタッフで共有し安心と興奮を共にする。

 僕らの日常はまるでアートだ、と思うことはある。けど日常がアートだと意識した瞬間にそれはわざとらしい人為的な副産物に成り下がる。アートに対し、消極的な態度の無自覚だからこそのアート。

 すべてのアートは暮らしの過去形なのでは?とすら思う。撮りためた写真を孔版印刷で印刷してもらい、自分達の手で撮影編集製本梱包まで仕上げ写真集を出版した。タイトルは「ともにいきる」。

 紡ぎ続ける日常がまるで音のない音楽のように、僕らの中に溜まっていく。

内的対話は人々の中で

 「わたし、なんだか哀しいの」
 小学生の私は、担任にそう言ったらしい。言葉にした覚えはなかったが、最近届いた手紙に書いてあった。

 哀しみは、お腹のあたりにいつも座っていて、時々“お前なんかいなくなれ”と心臓のあたりを突く。そのうち、落ち込んだり腹が立つと私はいつもいなくなりたいと思うようになっていた。

「当事者、支援者関係なくフラットに自分の心と体の助け方を学び合うワーク」

 しかし、哀しみは、どうやって生きていけば、生きていていいのか教えてもくれる。

 たとえば、なくなればいいと思う職業に就こうと今の仕事を選んだこともそうだし、誰かを傷つけないように心穏やかにいられる歌を歌うこともそうだ。大事な場面でも普段の生活でも、私は哀しみによって動かされたり、立ち止まったりしている。

 その哀しみが、生きていてよかったと感じることが稀にある。それは、誰かがその人の中にあるものを言葉にする瞬間、表そうとする瞬間に立ち会えた時だ。
 それがどんな感情であっても、目で見たり、耳で聞いたり、触れたりしたとき、表出されるまでのことを考えると涙がこみ上げてくる。その時、私は哀しみと抱き合っている。


「ワークの中で出し合う安心のためのガイドライン」

 私は、10数年前から精神科病院でソーシャルワーカーとして働いている。病院では主に、社会的入院者の退院支援と、当事者性を安心して言語化できる場作りをしてきた。精神疾患は、関係性の病と言われたりもするように、みな一人で病気になったわけではないし、一人で治っていく人もいない。

 社会的入院とは、すでに入院治療が必要な状態ではないにもかかわらず、家族が疎遠になるなどして地域社会に帰る場所を失って病院の中で患者として生活することを言う。

 その人たちは、その日何を食べるか、誰と会うか、何を着るか、いつ風呂に入るか、そういうことを自分で決めることなく時を過ごす。そのうち、そこでそうしていることがあたりまえになっていき、病院の外での生活を望む気持ちは追いやられ、やがて意識の外の方に置かれたままになる。社会の中で存在を否定され続けて生きるよりは、日々の選択権がなくなる方がよほど穏やかに生きていける。そうやって自分として生きることを諦めていく。
 もしかしたら、精神科にかかっている人たちのことを、何を考えているかわからない人、かかわるとめんどくさそうな人と思う人もいるかもしれない。でも、出会ってみると、その存在が私たちのあり方、世界の視え方を変えてくれる、そういう実感が確かにある。
 その人たちは、普段自ら語ろうとはしないが、実は語るべきことをとてもたくさん持っている。その語りが、ほかの人たちが生きることを助ける。


「ワークで作る自分の取り扱い説明書」

 そういう確信のもと、病院の内外で当事者研究、当事者会、WRAP(Wellness Recovery Action Plan)、自助グループなど、自分のことを語り、他者の語りを聴く場を設けてきた。


「手作りの元気の道具カルタ」

 コロナ以後、対話の場を必要とする声をそこかしこで聴き、実際に場が生まれてもいる。
 しかも、これまでの当事者とそうじゃない人を分けたものではなく、みな一人一人が当事者としてそこに居る。以前はベクトルが当事者に集中していたが、相互に影響し合い、支援と被支援の関係から自由になろうとする、そういうことが起きている。これまでとは異なる関係性との出会いが、お互いが変わる(=社会が変わる)きっかけになる。

 たとえば、寂しさで飲酒して入退院を繰り返していたおっちゃんが子どもたちにおもちゃを買うようになったり、ひきこもって食事も摂らずに痩せていく青年が中学生の女子に恋心を抱かれたり……それを見ている周囲にも変化は伝染する。

 制度や枠組みではなく、どんな風になってもその存在を受け入れ合おうとする態度が相互に交わされる場が、じわじわと生まれていっている。

 そうやって変わっていく世界の中で、私の哀しみとの対話も続いていく。