僕が障がいのある人の表現にドハマったわけ

第2回 明るい展望が見えたとき

 風の工房の在り方に思い悩んでいたころ、1994年奈良県にあるたんぽぽの家を中心に『日本障害者芸術文化協会』(のちに『エイブルアート・ジャパン』となる)という団体が設立された。障害のある人の表現をアートとして評価を高めていこう、アートを切り口に福祉のありよう、そしてこの地域社会のありようを変えていこうという趣旨が謳われていた。誘われるままに入会し、そこから送られてくる情報からは、ヨーロッパでは精神障害のある人のアートが現代アートの作家にかなり影響を与えているとか、日本国内のあちこちの取り組みなどが伝わってきた。そして風の工房の余暇時間などで何気なく仲間が描いていた絵と、あちこちで評価を得ている作品とどこがどう違うのだろうか? いやなかなか仲間の表現したものも十分いけてる、と単純な僕は思ったのだった。その年たんぽぽの家で開催された障害のある人のアート活動を支えるためのワークショップに参加し、様々な考えや取り組みを学び、つながりもできて、持って帰ってきたものを風の工房のこれからの活動に取り入れ、アート活動をメインにしようと確信したのだった。

 それまでの僕は障害のある仲間の表現したものは、稚拙な表現であり、発達年齢の低い段階の表現として見ていたのだった。それは当時自分が発達心理学の専門書を読み漁っていたこともある。また、芸術、美術、アートという世界は、まさに学校時代の美術教育で刷り込まれたあの教科書の世界であり、表現技術を極めたうえで見られる有名な作品こそがアート、特別な世界のことだと思い込みをしていたのだ。僕自身が従来の美術の枠組みに囚われていたのだ、仲間たちの表現する世界もアートだと言っていいんだと、気付いた時だった。

 粘土の作業場でのデキゴト、そして日本障害者芸術文化協会から得たものは、思い悩んでいた僕に、風の工房の日々の活動のメインにアート活動を据えようと決心させたのだった。それからというもの風の工房の収入を目的とした、いわゆる作業活動を徐々に減らし、アート活動(以後表現活動という言葉にする)を一人一人の仲間にあったものを考え、提供し、仲間が興味を示さなければまた別の手を考え……と、個別に表現活動の在り方を手探りで探していった。いつの間にかアートザンマイの毎日となっていたのだ。(続く)

著者プロフィール

関孝之
1954年生まれ。社会福祉法人かりがね福祉会で勤務しているときに「風の工房」を開設して障害者の表現活動支援を始める。アートパラリンピック長野の実行委員、スペシャルオリンピックス長野県大会のアートディレクターを務め、2014年からは、NPO法人ながのアートミーティング代表として障害者のアート活動を応援する活動に専念し、出前アートワークショップやアートサポーター養成講座などを行っている。信州ザワメキアート展実行委員長。

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