第9回 出前アート・ワークショップの現場にて~君の動かない手は魔法の手だ!~

あちこちの障がいのある人の福祉現場に表現活動を届ける「出前アート・ワークショップ」を始めてもう20年ほどになるだろうか。これまでの出会いで僕が感動とか気づきをいっぱいいただいたシアワセな時間を振り返ってみたい。

初めての出前は群馬県の前橋市にある「ワークハウスすてっぷ」だった。そこの友人が「風の工房」の作品展を高崎市内で開催してくれたことがご縁で、墨遊びのワークショップを月に一回、提供しましょうということになった。

すてっぷに通う人たちの障がいは多様で、重い脳性麻痺を抱えている人も多くいらっしゃった。そして、すてっぷは一人ひとりの障がいの状況に応じて、まさに多様な作業活動を提供していた。初めての日、広い空間に、アート・ワークショップに興味があるメンバーさんたちに集まってもらい、墨遊びの道具を机に広げ、施設長さんから僕のことを紹介してもらった。そのとき、メンバーさんはほとんど腰が引けていたのを感じた。

「なに? アート? それも習字? そんなのできねー。むりむり。苦手だあ……(無言)」。反応はおよそそんな感じだった。そこで僕は「今日は上手に書くのではなく、どんだけヘタクソに書くか。誰がイチバンヘタクソか、それがイチバンです。書道じゃありません。墨遊びです」と緩いおしゃべりで皆さんの気持ちをほぐした。僕だって初めて出会う人たちであり、それぞれどんなふうに筆を持ち、筆を運ぶか、何より文字をどれだけ知っていて、言葉を持っているか一人ひとり違うので、やってみないとわからないのだ。

まずは一番腰の引けていたメンバーさんに、あいさつをしながら少しおしゃべりして気分をやわらげた(といっても僕の半ばアホな話を振っただけだが)。そして「まずはあなたの番ですよ」と伝えると、おずおずと紙の前に来てくれた。その人は右半身の麻痺が強く、発音もままならない。大きな紙に漢字一文字を書いてもらおうと、知っている漢字を聞いてみたが、「うーむ……」とうなるばかり。僕は「今日の天気は? 雨ですね。では天気の天、天国の天という字を書いてみますか」とボードに「天」の字を書き、促した。また筆をしっかりと持てないので、「はい、息吸って〜、吐いて〜」と言いながら、息を吐いたときに少し緩んだ手に筆を持ってもらった。

 墨をたっぷり含んだ筆先からはぽたぽたと黒い滴が落ちている。でも「そんなの気にしないでいいよ」と伝え、書き始めの位置を指で示すと、彼は恐る恐る筆を置いてゆっくりと筆を動かし始めた。身体全体に麻痺があるため、筆を持つ手は思うように動かず、あらぬ方向に行ってしまう。墨が飛び散る。それでも彼は必死の形相で筆を動かした。彼が生み出した作品はなんという迫力だろうか。僕は鳥肌が立ち「すげー!」と言うしかなかった。何より本人自身が驚いたようだ。「きっと今まで、この麻痺している手を恨んだかもしれないけど、この手はこんなにすごい作品を生み出したね。これは君にしか書けない線だよ。ゴッドハンドだね」と言うと、彼はとてもうれしそうな表情を見せてくれた。そしてそんな様子を見ていたほかのメンバーも、次々とワークに参加してくれた。

 

月一回の、それも一人当たりたった15分ほどのワーク。でも皆さん自分の順番は「まだか、まだか」と待ってくれている。僕にとっても毎回「鳥肌もん」の作品と出会う濃密な時間になった。高速を走りながら、「さて今日は、あの人からどんな言葉が出てくるのだろう、どんな筆だったらいいだろう」などと考えながらすてっぷに向かう時間も、ワークが終えて濃密な時間を振り返り余韻に浸ることができる帰路の時間も楽しいものになった。

そのうちすてっぷのメンバーさんたちの作品展が開かれるようになった。タイトルは『遊墨民展』と名づけられた。メンバーの一人、Kさんには各所から作品制作の依頼も来るようになり、なんとデンマークですてっぷの作品展が開催されたときは、Kさんも会場でライブ墨遊びをしたそうだ。漢字が珍しいため、墨書は大いに関心を引き、会場は大いに盛り上がったそうだ。

〈つづく〉

第8回 耕す、種を播く

 風の工房でのアート活動がますます活発になり、注目もされ始めていたころ、ともに風の工房の取り組みを支えてくれていた妻が病気になり、1997年春、闘病の末に42才で天国に逝ってしまった。僕は地に足がついていないふわふわ感覚の中にいた。“呆然自失”の状態で、息子たちから『しっかりしてよ!』と叱られていた。

そんな時、日本障害者芸術文化協会(現エイブルアート・ジャパン)のお誘いで、海外の障がいのある人のアートの現状を学ぶツアーに、藁をもつかむ思いで参加した。サンフランシスコとロサンジェルスの障害のある人のアートをサポートするアトリエや、生まれる作品を社会にどう繋げているか、また美術館で障害のある人でも作品鑑賞できるようにするためのサポートボランティアの活動、病院でアート作品が積極的に展示され、患者さんの傍らに作品が寄り添う様子を見てきた(翌々年のイギリスのスタディーツアーにも参加した)。そうした機会を得た僕は、海外の状況をうらやましがっているのではなく、日本においてはどうか、自分の暮らす地域においてはどうかを考えながら、学んだことをどう活かしていくのか、これから自分ができることは何かとぼんやりと思っていた。もちろん国内においても先進的に障害のある人のアート活動を取り組んでいるところもあるのは知っていた。特に関西圏においては古くから障がいのある人の表現をアートとして評価し、発信していた。長野県内にもわずかながらも取り組みがあるという情報もあった。

 帰国して妻が入院していた病院を思い出すと、なんと味気のない空間だったろうかと感じる。ここに風の工房の仲間の作品が飾られたら、どれだけ患者さんの心をほぐしてくれるだろうか、慰めてくれるだろうかとしみじみ考えた。そこで県内のホスピスを回って作品を展示させてもらう活動を始めた。その中で当時、鎌田實さんが院長をされていた諏訪中央病院は積極的に作品を買い上げてくれ、院内あちこちに展示してくださった。書道というとどこか迫力ある、エネルギーあふれる作品をイメージするが、風の工房の仲間たちの墨書はゆるゆるとしていて、見る人の心をもみもみほぐしてくれる。患者さんの緊張をほぐしてくれていることを実感した。

 1998年、長野ではオリンピック・パラリンピック冬季大会が開催され、パラリンピックを応援する『アートパラリンピック長野』が、ボランティア主導で開催された。そのことはこのサイトの連載コーナーで実行委員長をつとめられた内山二郎氏が詳しく書かれている。僕も実行委員として参加し、国内外から障害のある人の作品のほか、パフォーマー、ミュージシャンが参加し、まさに長野市内が障害のある人のアートでカラフルに彩られた。もちろん風の工房からも作品を出品し、街角に飾られた。ちなみに西沢美枝さんの墨書を装丁に使っていただいた鎌田さんの『がんばらない』はこの時に注目され、ブレークしたのだ。

 さらにまた、2005年にはスペシャルオリンピックス冬季大会が長野県内のいくつかの地域で開催されたのだが、長野県からアートディレークター(なんともこそばゆい)という役も与えられて、風の工房やOIDEYOハウスの作品が長野県信濃美術館に展示されたり、県内国内の作品の展示があちこちで実現した。

 そして僕は『アートフラッグ』が競技会場のみならず県内あちこちにはためくことをモーソーし、企画を長野県社会福祉協議会に持ち込んだ。使われなくなったシーツの上にだれかが寝転がってポーズをとり、その人型を利用して、そこにみんなで寄ってたかって色を塗る。そのフラックを募集して集めて、競技会場をはじめ県内あちこちにはためかせようというもの。社協は快く応えていただき、県内あちこちにこの簡単なやり方を伝え、募集した。お呼びがあれば出向いてワークショップを提供した。各地の学校や公民館でも取り組まれたり、県庁のロビーでも当時の田中康夫知事も寝転がってくれ、アートフラッグができた。予想を超える数のアートフラッグが集まり、それらは大会期間中、競技会場をはじめ善光寺山門、アーケード街、さまざまなところに飾られた。ホストタウンでは外国選手と地元の人たちの交流としてアートフラッグの制作がされたようだ。アートパラリンピックも、スペシャルオリンピックスのアートフラッグも県社会福祉協議会の力があってこそ実現したものである。今思い起こすとあの盛り上がりようは夢のようなデキゴトだった。集まった大量のアートフラッグを保管していた部屋はアクリル絵の具の匂いでむせ返るようだったことを思い出す。

〈つづく〉

第7回 心の中を荒れ狂う嵐に振り回される人の表現

 20年ほど前だろうかCHIZUMIさんは、ある真夏の晴れた日、黒い日傘をさし、上から下まで黒づくめの服を着て風の工房にやってきた。カゲロウみたいだな、という第一印象。話を聞くと、今彼女がすがりつくように頼りにしているS病院の心療内科のドクターから、「絵を描くことが好きなら風の工房に行ってみたら?」と勧められたという。たまたま僕はそのドクターとは知り合いでもあった。一緒に食事をしながらお話を伺うと、CHIZUMIさんは大学の研究者であるご両親のもとに生まれ、幼少期から研究に忙しい両親ではなく叔母さんの手で育てられたという。子供のころから両親に対して複雑な感情があり、その感情をうまくコントロールできず、言いようのない不安感に襲われたりし、長い間リストカット、過剰服薬、飲酒などを繰り返しているという。とても頭のいい方で難しい心理関係の専門書を読み漁り、また医療も渡り歩いたり、ナントカ療法を受けたり、当事者の会に出たりもしたが、湧き出る言いようのない不安感、圧迫感は消えてくれないと話してくれた。詳しくはわからないけど子供のころから抱えていたご両親との向き合い方に悩んできたことが根っこにあるのだそうだ。

いろいろ苦しみ、苦労して生きてきたんだなあ、と思いつつ彼女が持参したスケッチブックを見せてもらうと、そこには明るい広場でいろんな動物と仲良く遊び戯れている様子が描かれたイラストが並んでいた。僕は失礼にも『ふーん。正直言うと絵はとても上手に描けているけど、あんまり面白くないなあ』と言ってしまった。そしたらCHIZUMIさんは目を輝かせて『そうでしょ。これドクターに会う時に見せる絵なんだ。もっと別なものを描きたいのだけどね』との言葉が返ってくるではないか。彼女の心の中の苦しさを聞かされていたので『そんならあなたの心の中のどろどろを描いてしまえば? その代わりその絵はあなたの排せつ物みたいなもんだから、ここに捨てるように置いていくことが条件だけど』と話すと、彼女が目をキラキラさせて『そうさせてください』と言い、さっそく工房の画材で描き出した。いきなり真っ黒の下地の上に顔のない人物が登場し、打ちひしがれている風景、リストカットのなまなましい血がだらだら流れている風景、大量の薬の中に溺れている自分、など。まあはっきり言って気持ちのいい絵ではない。絵はだんだんと変化し、蛇や、トカゲが現れ、そこにはこれでもかというほどの苦しさが表現されていた。

 彼女は「どうもこれが私に住み着いて私を苦しめているやつらしい」とあっけらかんと嬉しそうに言うのだった。僕も調子に乗って苦しいはずのことを笑い話に変えたり、普段飲んでいる大量の薬を並べてCHIZUMIさんとダジャレを考えながら新しい薬の名前を考えて、薬の標本箱みたいなものを作って彼女の通う病院のロビーに作品と一緒に展示させてもらった。知的障害のある仲間たちがCHIZUMIさんの絵を見て、『わー、気持ちわりい』という率直な反応も楽しんでいて、みんなと打ち解けて友達になっていった。風の工房では明るく、笑い声が絶えず、本当に苦しい心の病を抱えているのかと思ってしまうほどだった。苦しい内面を抱えているのだが、それを吐き出すように表現することを彼女は楽しんでいた。『専門書ではわからなかった私を苦しめるものが、だんだんわかってきた気がする』と話してくれたが、でも夜一人になると不安感は湧き出てきて、思わず飲酒と過剰服薬に走ってしまうらしい。
 一年ほど風の工房に通ってきただろうか、とにかく描きまくった。そしてある日『おかあさんが倒れたので、実家に帰ります』と言い残し、風の工房での表現活動はぷっつりとなくなってしまった。でも実家に帰っても彼女は描き続けていた。年に数回電話で近況を知らせてくれ、『お母さんの介護をしていると今までのような絵が描けなくなってきた。どうしましょ。』と言う。それはあなたが心の回復に向かっているのかも、と伝えると、『えーそんなの困るー』と言う。実家に帰っても相変わらずあの気持ちの悪い世界を描き続けていたのだ。しかし僕も風の工房を離れたこともあり、次第に連絡もなくなっていった。お母さんが亡くなり、そのショックもあったようだが、ますます絵を描き続け、地元でCHIZUMIさんの作品を評価する人が増え、個展が実現したり模したそうだ。ぽつぽつと連絡があり、足元がしっかりしてきたなあ、と思っていたのだが・・・・難しい難病も抱えていたCHIZUMIさんは一昨年、突然逝ってしまった。ゆっくりとおしゃべりをしようねと電話で話していたのに。

 彼女の絵を評価していた人が、彼女が遺した作品の作品集を作るというので、つたない僕の追悼文を寄せさせてもらった。今も、いろんなところへ出かけ、障害のある人の表現活動の場を提供している自分だが、あの気持ちのわりい(とはいえ僕はすごく好き)絵たちを思い出すたび、CHIZUMIさんが工房で心の中のどろどろを排泄する(嘔吐する)かのように絵を描きまくったあの時間は、果たして彼女にどんなシアワセをもたらしたのだろうか?と考える。彼女が仲間たちとけらけらと笑いあっている風景を思い出す。彼女が友達に『私にとっての最高のアートセラピストは関さんだ』と語っていたと聞いた。僕はそんなアートセラピーなんてしているつもりは毛頭なかったのだけど。

 FUKUさんも心の中に得体のしれないナニカを抱えながら暮らしている。彼の周囲の人たちが彼のことを悪く言っている、という妄想にとらわれ、世の中には怖いことがいっぱいだ、と悪いニュースに気を奪われているかのようにおびえながら暮らしている感じだ。風の工房に通うようになって、いろんなおしゃべりをしているうちに、きれいな女性の写真集や雑誌のグラビア写真の話で盛り上がり、そこに載っている写真画像を観ながらそれを絵に描いてみないか、と提案した。『いいですねえ』とFUKUさんはちょっぴり恥ずかしそうに照れながら、戸惑いながら、じっとその写真を観て、画用紙に向かって線を引いていった。たぶん彼は忠実にその写真を写しとっているつもりなんだろうが、現れた絵は元の写真とは全く別のFUKUさんワールドであった。油性ペンの線は戸惑い、ドキドキし、時にはすっ飛び、何とも言えない絵になっている。『すごいね!』と伝えても『そ、そうですか?』と答えるだけだった。色を塗りこんでみようかと提案したが、『いやもう疲れてダメです』という。僕の提案なんか余計なことだった。線画として十分な表現だ。しばらくはそんなやり取りで盛り上がり、いくつかの作品を生み出したのだが、FUKUさんは心の調子も良かったり、悪かったりでグループホームの自室にこもることが多くなった。そのうち、「本当は書道をやりたい、昔から習字を習ってきた。もっと上手になって有名な賞を取りたい」と言い、自室で習字をやるようになっていった。あのわずかな期間だったがFUKUさんの生み出した絵は今でもすごいと思っているが、何よりご本人はそうは思っていないらしい。風の工房を離れ15年ほどになりFUKUさんとの付き合いもなくなってしまったが、いつかまた絵を描きだしてくれないかなと願うばかりだ。

 NABEさんは若いころから自立して仕事をしなければ、という想いが強く、都会に出て働いたりもしたがうまくいかず、それがかえって心の不調を招いたらしい。風の工房に通うようになって、絵を描き始めたのだが、そこらにおいてあった週刊誌のかなりエロい写真を見てはそれを描きだした。僕も決してその手の写真は嫌いではないので、二人して『おー、エロいなあ。スケベだなあ』と盛り上がった。彼とは楽しいおしゃべりがたくさんあったのだが、その中に彼自身が心の中に抱えてきた鬱屈したこれまでのモノガタリもたくさん聞いた。そこで「NABEさんの苦労モノガタリを書いてみないか、そしてそれを多くの人の前で発表してみないか」と提案したところ、ノートにびっしりと、まさに自分の苦労モノガタリを書いてきた。たまたまある高校の福祉コース(女子高生ばかり)の授業を依頼されていたので、「ジョシコーセーの前で、これ発表してみる?」と提案したところ、彼は大いに張り切った。そして当日はなぜか白衣を着てみたいとの彼の希望で、白衣を着たNABEさんが登場し、僕は彼の横で、彼の作品を掲げる役割で登壇した。たどたどしくはあるが見事に自分の苦労モノガタリをノートを見ながら発表したのだった。ジョシコーセーたちは、僕なんぞが小難しく福祉とはと、話すよりはるかに強くNABEさんの話と絵のほうに反応した。当事者が語るチカラにはかなわない、と思い知ったことは言うまでもない。
 僕が工房を離れてからしばらく、NABEさんは就労と一人暮らしに挑戦したらしい。現在は別のアート活動をする事業所に通い、エルビス・プレスリーや、スティービー・ワンダーなどのオールディーズの懐かしいミュージシャンの絵を描いている。NABEさんが絵を描き続けていることがとてもうれしいし、そういった場を提供されていることもうれしい限りだ。

 CHIZUMIさん、FUKUさん、NABEさんが風の工房でユニークな絵を描いていたころ、僕は精神科領域の知識がなく、必死にその手の専門書を読んでいたのだが、この3人のことを考えてみても、照らし合わせてみてもピンと来ないでいた。まあ、そんなことはどうでもいいのだ。何より心の中を吹き荒れる嵐のようなものに翻弄されているけれど、必死に生きている。それを吐き出すかのように表現する場を提供することで応援することしか僕にはできないと思った。そこで松本市内のあるギャラリーとご縁があり、『病むチカラ展』というタイトルで3人展を開催した。なかなかの反響があったことを覚えているが、果たして3人にとってはどうだったのか?

〈つづく〉

第6回 いろんな表現がにょろにょろ

【刺繍】

HIROMIさんは風の工房に通い始めた当初、とても怒りっぽくて、急に大声を出していた。どうやら幻聴に振り回されていたらしい。仲間たちも何だか近寄りがたい感じだったので、彼らとも少し距離を取りつつ、何かHIROMIさんが夢中になって取り組めるアートな活動はないものかとあれこれ考えていたとき、そうだチクチクと刺繍はどうか、それも細かい作業ではなく、わかりやすくてざっくりしたものがいいと、さっそくコーヒー豆を販売している知り合いから、コーヒー豆を入れる麻袋をいただいてきた。

そして太い針と毛糸を使って刺して返すという、いたって単純な刺繍を提案してみた。絵柄は関がざっくりと描くのだが、罫線のように油性ペンで線を入れておくと、彼女は自分の考えた色の毛糸で刺して返すを繰り返した。作業台も彼女のやりやすいように手づくりした。HIROMIさんはもともと丁寧に作業をする人なのだが、「これ、面白い」と言って夢中になってくれた。するとどうだろう、いつの間にか大声を出したり、怒り出したりすることが減っていった。

この刺繡にはほかの仲間も興味を覚え、MIYA君、SAYAKAさんもいい感じでハマった。毛糸を確保し、針に糸を通して渡すというサポートをしながら、日がな一日のんびりと仲間が音楽を聴きながら刺繍をしている風景は良いものだと、しみじみ。とはいえ毛糸が足りない、ビンボーな風の工房にお金の余裕はない。そこで、かりがね福祉会が真田町内全戸に配布していた機関誌と町の社会福祉協議会の広報誌に「お宅で眠っている毛糸を譲ってください」と掲載してもらったところ、びっくりするほどの毛糸が集まったのだ。感謝である。

【ボールペンアートのハジマリ】

当初こちらで用意した画材はクレヨン、絵の具、色鉛筆だった。仲間たちの多くは殴り描き、色もガシャガシャとした塗り方で「ほい、できたよー」とばかりに次々と紙を使いまくるため大量の作品(?)がたまっていった。今の僕ならばそれもいいのではないか、と思えるのだが、当時は「できればきちんと、集中して、時間をかけて丁寧な塗り方をしてほしいなあ」というのが正直な気持ちだった。また仲間も増え、次々と作品が生まれても、僕や数少ないスタッフでは対応できない。そこでハタと考えた。時間をかけてゆっくり絵を描いてくれる方法はないものか、と。なぜなら絵を描くことに集中してくれている間に、わりと障害の重い人へのアプローチに時間を使えるからだ。

僕は「そうだボールペンはどうだろう!」と思いつき、ホームセンターに出かけ、さまざまな色のボールペンを大量に買い込んできた。そのカラフルなボールペンを見て最初に目を輝かせたのは、刺繍にハマっていたHIROMIさんで、次々とユニークな作品を生み出し始めた。それを見ていた仲間からもボールペンを手にして描き出す人たちが出てきて、一時期は“ボールペンアート”ブームになった。なにせ1枚の絵を仕上げるのに何日もかけてくれるのだから、「こりゃあいい」と僕はニンマリした。
まぁこんな僕の姑息な思いつきで、風の工房でのボールパンアートは始まった。

HIROMIさんは頭の中に浮かぶさまざまなイメージを次々に表現していく。ボールペンで空白を埋めていく時に紙の位置を変えるのため、線の向きが変わり、同じ色でもそこに独特の模様が生まれる。豊富なイメージが泉のごとく湧き出る彼女を見ていて、僕はいつか枯渇してしまわないかといらぬ心配をしたほど。しかし、僕がかりがね福祉会を離れてからではあるが、HIROMIさんはある日突然逝ってしまった。今は残された作品は自宅に飾られ、お母さんが管理されていると聞く。

【ならべアート】

重い自閉症という障害があるUTTIが、ある日OIDEYOハウスから姿が見えなくなった! と思ったら、裏庭で石をほじくり出してそれを並べていた。そんな行為がよく見られるようになって、スタッフがそれを面白がるようになった。スタッフが川から適当な小石を拾ってきて、ほかの仲間たちが絵の具で色をつけてバケツに入れておくと、UTTIはそれを持ち出して裏庭で並べ終えると、スタッフが毎日写真に撮った。

お母さんに聞くと、並べるという行為は小さいころから家の中でも毎日のようにやっていて、引っ張り出したティッシュで廊下にまるで雪が積もったかのように並べられていたそう。また別の日には、こたつの上に洗濯ばさみ、ブロック、お菓子の包装紙、果ては食べた後のぶどうの種まで並べた。それを世間では『自閉症の人のこだわり』という言葉でくくってしまうが、僕らはそれを理解はできないもののUTTIなりの法則で並べているのだろうと考え、『UTTIのならべアート』と呼び、面白がった。

作品展でも会場の床の上に本人に石を並べてもらって、ほかの仲間たちの作品と共にインスタレーションとして展示した。ある美術館のフロアでUTTIが石を並べるように段取りしたはいいが、UTTIの『ならべアート』を始めるスイッチが入るまでに1時間以上もかかり、付き添ったスタッフがひたすら待っていたことを思い出す。

お母さんは「家で余計なことして困るんです、ティッシュがいくらあっても足りない」と当初はおっしゃっていたが、「これはカッコいい現代アートですよ」と伝えると、「そうなんですかあ? 無理やり止めさせればパニック起こしますしね、安いもんだと思えば、ま、いっかあ」と言い、数日後にUTTIを床屋さんへ連れていき、モヒカン刈りにして「うちの子は現代アーティストなんですねえ。あはは」とうれしそうにしていた。
なんて素敵なお母さんだろうか。本当はそれまで重い障害のわが子を育てるのに並々ならぬ苦労を重ねていて、僕らもその苦労話をたくさん聞いていたのだが。

〈つづく〉

第5回 存在そのものがアートなヒト

 障がいのある人5名と自分の家族とが実験的に小規模で共同生活をすることを目指してスタートした「風の工房」では通ってくる人が多くなり手狭になってきて、僕はかりがね福祉会のバックアップと、上田市に合併する前の真田町の親の会の応援のもと、『作業なんかしないアートする作業所』?といううたい文句でOIDEYOハウスという共同作業所を2001年に開設した。またその後、精神障害の人が憩う「憩いの家」を、さらに2005年「アトリエFuu」と障害のある人の通所する施設を開設していった。いずれも障害のある人の日中活動の場が求められていたからでもあり、関個人としてはもっとユニークな表現をする人に出会いたい、という下心があったからでもある。仲間たちの表現に強く関心をもち、面白がる若いスタッフも集まってきた。


 関さんが開所した施設たち

 SIMAさんは《存在そのものがアートなヒト》だった。前回紹介した内山さんと同じグループホームに暮らし、風の工房に通ってくるようになった。でも内山さんのように完成度の高い作品はなかなか作れなかったが、結構内山さんを意識して粘土でお面を作ったり、とげとげのあるサボテンみたいなユニークな造形作品を作ったりし、自分なりの作品を生み出していた。絵を描くことが苦手だという意識もあってか、広告にある商品を薄い紙でトレースするようになり、それがそのうちどこからか拾ってきたエロ雑誌の中のヌード写真や、女性下着のチラシをトレースしたりし始めた。本人は忠実にトレースしているつもりらしいが、あてがっているトレース紙はズレてしまう。さらに油性ペンで色を付けていくと、それはもはやSIMAワールドだ。

 

 SIMAさんは2001年に開設されたOIDEYOハウスに移ったが、そこでも彼の創作意欲はますます盛んになっていく。僕らはSIMAさんを“トレースアートの達人”と呼んだ。来訪者を捕まえては「ちょっとお、顔カチテ(貸して)」と舌足らずの言葉を投げかけて、トレーシングペーパーを相手の顔にいきなり押し付けて、それを油性ペンでなぞっていく。また「足カチテ」と相手の足を裸足にして紙の上に置いてもらいその足型をトレースしていく……と何ともユニークなことをしでかすのだ。そして「ハイ、コレオミヤゲネ」と言って相手に手渡してニコニコだ。その風景はあっけにとられている来訪者と彼の間になんとも言えない空気が生まれている。SIMAさんなりの豊かなコミュニケーションの一つのカタチだ。


 

 そのうちSIMAさんはOIDEYOハウススタッフのMomoちゃんに恋をする。「ケッコンチテ」と迫るがMomoちゃんは「SIMAさんのこと好きだけど、結婚はできません」とかわしていく。いじけるSIMAさんだがなんとも憎めない。さらにSIMAさんは国語ノートのマス目を「も」の字で埋め尽くした。何冊も何冊も。そして目につくもの何にでも「も」の字を書きまくる。具合が歩くて何日もOIDEYOハウスを休んでいる間も、ホームの自室で書き続け、紙に書き尽くした挙句、自分の両腕や両足に「も」の字を書いていた。僕らはSIMAさんの叶わぬ恋の切なさをくみ取りながらも、ユニークな「もももラブレター」シリーズを楽しんでいた。またSIMAさんは自分の作業机や、椅子などカラーテープで飾ることをし始め、OIDEYOハウスの作品展ではスタッフの佐々木良太君の叩くジャンベのリズムに乗ってライブペインティングならぬライブテーピングショーまで披露したのだ。また不要になった襖をもらってきて、そこにトレースアートの作品や「ももも」の作品を張り付け、それをカラーテープでぐるぐる巻きにする、というかっこいい作品も作り、あちこちで発表した。


 

 OIDEYOハウスや風の工房の若いスタッフたちは、陰でSIMAさんやほかの仲間たちの表現をサポートし、それらの表現をオモシロがり、自分たちだけで面白がるのはもったいないと、いろんなところに作品を紹介する努力をしていたことは忘れてはならない。そしてスタッフ間では『僕らは指導しない、教えないを原則とし、あくまでその人が表現したくなるようなサポートに徹する。そのヒトの表現をオモシロガル。』ということを確認しあっていた。


 SIMAさん

 しかし、SIMAさんはおそらく静脈瘤が原因だと思われるが、ある日突然に逝ってしまった。僕らはその突然さに呆然としたのだが、ホームのある地域の公民館でSIMAさんを偲ぶ会が開催されたとき、もともとホームは地域に開かれており地域のいろんな人が普段ホームに出入りしていたため、子供からお年寄までたくさんの人が集まってきた。しかし、その会は悲しみに暮れるどころか笑い声が沸き上がり、「SIMAさんておもしれえ人だったよなあ」とSIMAさんをめぐるエピソードがたくさん語られ、それらはおかしくて、笑えてしまうことばかり。僕ら支援者の知らないところで、SIMAさんは地域のいろんな人とつながっていたことを改めて知った。彼が残した作品を地域の人が見ながら、改めてSIMAさんの人柄をしみじみ偲んだのだ。まさに存在そのものがアートなヒト。作品はだいぶ無くなってしまい、画像もあまり残っていないけど、僕らの心にはニコニコと「Momoチャンスキ」「カオカチテ」というSIMAさんが作品と共に今も生きている。  
≪つづく≫

第4回 個性丸出しの表現がにょろにょろと出てくる(ねんど編)

 この連載の第一回目で触れたが、「粘土、やめようか」(粘土で製品をつくること)と言ったら、仲間がうれしそうに「うん、うん」と作業場から出ていってしまった、あのデキゴトの続編である。僕はさてどうしたもんやら、と途方に暮れていたのだが、そこに仲間が握りつぶしていた粘土の塊が残されていた。その握り跡が残る粘土の塊を手に取って眺めているうちに、それがいろんな形に見えてきた。「面白いなあ」と思っていると、さらに破れた袈裟を風になびかせて諸国を修行して歩く僧、雲水の姿が連想された。

 

 そこに丸くした粘土をつけたりあれこれ試行錯誤しているうちに『にぎり地蔵』が生まれた。仲間に「お団子コロコロして(頭にする)」「ハナクソいっぱいつくって(数珠にする)」「おせんべいつくって(台座にする)」と笑いあいながらパーツをつくってもらい、僕がそれをくっつけて出来上がり。当時『ご利益ありません・にぎり地蔵』としてけっこう売れたのだ。
 仲間たちも粘土をいじることが楽しくなってきたようだ。そのうち思い思いに粘土を積んだり、くっつけたりしながら、それぞれのやり方で個性的な作品が生まれ始めた。だんだんと器のような“製品づくり”はやめて、まさに一人ひとりの“創造作品づくり”に変わっていった。僕のやることは粘土を練って用意し、例えば粘土を積み上げていく途中で崩れかけて困っているときは中に新聞紙を入れて補強してあげることなど、あくまでもサポート。そして焼成は僕の仕事だ。

 手先の不器用なIさんもその不器用なままに迫力ある人の顔を表現していた。ある時ホスピスで墨書、絵、粘土の造形作品を展示させてもらったところ、Iさんの造形作品はエネルギーが強すぎて患者緩和ケア病棟にはふさわしくない、と言われ撤去したことがある。展示した場はまずかったが、Iさんのあの不器用な指先から生まれる作品の価値を改めて思い知った。

 MMさんのつくるものは、まるでやる気のないのんびりした性格そのままの感じが作品に表れていた。MMさんはこぶし大の粘土の塊を手のひらに載せ、それを顔に見立てて、指でくぼみをつけ口にし、豆粒のようにした粘土を二つ付け、鉛筆の先でちょこんと穴をあけて目にしている。そしてちぎった粘土を鼻に。まあ、ほんとに超省エネの手仕事だ。しかしMMさんは長い時間、手のひらの上の粘土の塊をぼんやりと眺め、じれったいほどゆっくりと口、目、鼻をつくっていく。そして一日に3つつくったら「もう疲れた。おわり!」と言ってやめてしまう。ある日、3つ目をつくっていてあとは目を付けるだけの段階で、僕が「もう少しで完成じゃん。あとは目だね」と言うと、しばらく考えていたMMさんは「ううう。目は明日だなあ」と言って作業場から出ていってしまった。お見事なほどがんばらないMMさんである。本人に「この作品のタイトルはどうする?」と聞くと「わかんねえ。何でもいいよお」というので『ぼんやりする人』シリーズとしてほかの仲間たちの作品と一緒にあちこちで展示し、販売もした。「私、MMさんのファンです」という女性がわざわざ風の工房まで会いに来てくれた。MMさんは照れてしまって、「オラしらね~」とどこかに隠れてしまった。

 さて風の工房では忘れてならない作家がいた。故・内山智昭さんである。内山さんは聴覚障害もあり、身振りでなんとか意思疎通するが充分ではない。以前は建設現場などで働いていたが、その障害ゆえに危険な場面に気づかず怒鳴られたりし、周囲に大変な気を遣って生きてきた。他者への気遣いは想像以上らしい。そのストレスが時に彼を精神的に不安定な状態にしてしまうことがあったそうだ。かりがね福祉会のグループホームに入居し、しばらくは就労の機会を探っていたが、難しく、風の工房に通うようになった。そこで粘土の造形に誘い、筆記も手話も難しく、身振りでなんとか粘土のこね方、積み上げ方を教えただけなのだが、たちまち彼は会得して自分なりの作品を創り出してきた。ある時、女性のモデルが載っている雑誌を見ながら、僕が「ナイスボディだね。おっぱいのカタチきれいだね」と身振りで伝えたところ、彼は女性の胸をきれいに表現したのだ。なんとそこには花も添えられている。すごいなあ、とびっくりだ。彼はニコニコと嬉しそう。それからというもの彼は次々と作品を生み出していった。不思議なまるで宇宙人のような造形作品もつくっている。

 しかし、彼は突然、「実家に戻る」と言い出し、強引にグループホームから実家へ帰ってしまい、そのままお兄さんとの二人暮らしで、引きこもった生活となってしまった。なぜなのか、まったく分からない。関係者が集まってさまざまな話し合いをしたが、言葉が通じない彼の本心は不明であり、彼はニコニコしながらも頑として家から出てはくれなかった。
 そうこうしているとき彼の作品は広く知られ、『アールブリュット・ジャポネ展』で国内のほかの作家さんたちの作品と共にフランスで展示され、高い評価を得た。そのことも写真や身振りで伝えたのだが、それでも彼は頑として引きこもったまま。残念ながら数年前に彼が亡くなったという知らせを聞き、急きょ伺ったのだが、何より彼と言葉でのコミュニケーションが取れなかったことがもどかしくて、引きこもってしまってから、その実家が遠く山奥だったことを理由に何もできなかった自分の無力さを思い知るばかりで、あの工房での楽しかった創作の時間が、まるで夢だったのか、と今でも思われて仕方がない。

 振り返れば粘土の造形に限らないが、風の工房では毎日一人ひとりが個性マルダシの作品をにょろにょろと生み出し、僕は毎日ゾクゾクワクワクしていた。思えば作品の向こう側に、楽しかったこと、嬉しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと、さまざまなモノガタリがある。ちなみにここに紹介したMMさんも、Sさんも、Iさんも、もう天国に逝ってしまった。≪つづく≫

第3回 個性丸出しの表現がにょろにょろと出てくる(その1)

 奈良のたんぽぽの家のアートサポーター養成講座では、書家の南明容氏がたんぽぽの家で書のアートワークを提供している様子と、僕自身が実際にガムテープでがんじがらめにされて不自由な状態で筆を運んで文字を書くという体験、アートカウンセラーのサイモン順子さんの絵のワークショップを体験した。どちらも筆で文字を書く、絵を描くとはこうあるべきという自分に染み込んでいる縛りから解放されるきっかけになった。さっそく風の工房で仲間たちに絵を描く、文字を書く、粘土を自分の感覚に任せてこねる、という場面を提供していくと、僕が無意識にしがみ付いていた『こうあるべき』的な縛りを、仲間たちははなから『そんなの知らん!』とばかりに個性丸出しの表現を見せ始めたのだ。

 Mさんは知的障がい、右半身まひ、てんかん発作、場面緘黙(※)など重複障がいを抱える男性だが、僕からの冗談やふざけあいにはニヤニヤしながら楽しんでくれる人だ。実際に墨書の場面でどんな文字を書こうか、と聞いてもニヤニヤするばかりなので『ありがとう』とひらがなをボードに書いて『このありがとうという字を書いてみる?』と言うと、やはりニヤニヤしながらボードを見ながら自由の利く左手で筆を持って実にたどたどしく筆を運んだのだ。なんというバランスだろうか? いわゆる習字のお手本とはまるで違う文字だが、見る者は思わずにっこりしてしまう。その後Mさんは様々な墨書の作品を僕とのやり取りから生み出し、あちこちで発表して高い評価も得た。いくつかの障がいを抱えながらむしろそれゆえに、Mさんしか表現できない独特な個性があることを実感したのである。もう天才!

 Nさんは『頑張るぞー』が口癖の女性だった。僕が汗びっしょりになって工房の草刈りをしていると窓から顔を出し、『セキさん頑張れよー』と言い、Nさんはボーっと立っている。決して手伝ってはくれない。『どこががんばるんだ?』とむかっ腹が立つも憎めないNさんだ。ある時Nさんにどんな字を書こうか?と聞くと『頑張るって書きたい』という。いつもの口癖だ。意地悪な気持ちになって『今日は頑張らないって書いてほしいなあ』と言うと『いけないんだよ。そんなこと言っちゃいけないんだよ』と拒否をするので、Nさんに向かって土下座をして『お願いだから書いてほしいのです』と手を合わせて頼むと、Nさんはしぶしぶとたどたどしく書き始めた。そこに現れた墨の線は見事にしぶしぶ書いてやったぞ、こんなこと言っちゃあいけないという気持ちが素直に表れていたのだ。もう驚くばかりだ。鳥肌もんだ。
 考えてみればNさんに限らず障がいのある人は小さいころからずっと『頑張れ!』と言われ続けている。学校でも『頑張ろう』という標語が氾濫している。Nさんにしてみれば頑張るとはどういうことなのかよくわからず、『頑張る』と言えば周囲から褒められることを学んできている。頑張らなくていい、NさんはNさんのままでいいと思うのだ。

 工房の活動が広く知られ始め見学に来る人が増えてきて、ある日ボランティアのおばさんたちが研修として来られ、『がんばらない』の作品を怪訝な目で見、帰り際『みなさん頑張ってね』と言って去ろうとしたとき、Nさんは『おばちゃんもがんばってねー』と言ったのだ。
 『がんばらない』の作品があちこちで評価を得たころのこと、僕の妻が病気で入院していたのだが、妻は友達が心配して見舞いに来てくれるのはありがたいけど、来ないように伝えてほしい、と言う。結構重篤な状態だった(その後42歳で天に召される)彼女は『がんばれって言われるのがつらい。これ以上がんばりようがないじゃん』という。僕は返す言葉がなかった。何気なく『がんばろう』という言葉は時には本人をつらくさせることもあるのだ、と深く心に刻んだときだ。妻が逝ってしまってから、僕は入院先だった病院の殺風景さを思い出し、工房の仲間たちの作品は病と向き合う人たちの心を癒す力があることを確信し、県内のいくつかのホスピスに作品を飾ってもらえないかと歩き回って、3か所で飾らせてもらった。当時、諏訪中央病院の院長だった鎌田實氏のもとへも作品を持って話に伺うと、快く承諾をいただき、その中から何点か買い上げて院内に展示してくださった。その時『がんばらない』の作品を『この言葉は病院ではまずいですかねえ』とおそるおそる先生に見てもらったところ、『これだよ、これ待ってたんだ』と先生は即買い上げ、病院の玄関ホールのど真ん中に飾ってくれた。先生は『がんばるのは医療者であり、患者さんはゆったりとありのままでいてほしい』と言う。その後、鎌田先生は『がんばらない』という本を書き、全国的に『がんばらない』の言葉が広がった。
 ほかにも風の工房では自閉症のTさんやJ君、そのほかの人でも文字や言葉の意味はおそらく理解できていないだろうが、ボードに書かれた文字を写し取る能力があり、言葉の意味をできるだけわかりやすく伝えながら墨書に取り組んでもらった。それぞれにユニークで個性的な文字が見られた。Tさんは瞬間的に筆を走らせ、書き終わると『書いてやったぞ!』とばかりに筆を放り投げてどこかへ行ってしまう。しばらくすると戻ってくるのだが、僕は飛び散る墨を浴びながらその墨の走りに驚き、思わず『ありがとうございました』とうなだれるばかりだった。

 多分彼らは今まで墨書なんていう経験はほとんどなかっただろう。そして普段も文字を書くということはほどんどない。それなのにこんな表現を平気でしてしまう。もううらやましいやら妬ましいやら。普段の暮らしでは支援者のサポートが必要な人たちだが、表現することにはあまりにも自由だ、裏返せば『なんて僕は不自由なんだ!』と思い知らされたのだ。(つづく)

第2回 明るい展望が見えたとき

 風の工房の在り方に思い悩んでいたころ、1994年奈良県にあるたんぽぽの家を中心に『日本障害者芸術文化協会』(のちに『エイブルアート・ジャパン』となる)という団体が設立された。障害のある人の表現をアートとして評価を高めていこう、アートを切り口に福祉のありよう、そしてこの地域社会のありようを変えていこうという趣旨が謳われていた。誘われるままに入会し、そこから送られてくる情報からは、ヨーロッパでは精神障害のある人のアートが現代アートの作家にかなり影響を与えているとか、日本国内のあちこちの取り組みなどが伝わってきた。そして風の工房の余暇時間などで何気なく仲間が描いていた絵と、あちこちで評価を得ている作品とどこがどう違うのだろうか? いやなかなか仲間の表現したものも十分いけてる、と単純な僕は思ったのだった。その年たんぽぽの家で開催された障害のある人のアート活動を支えるためのワークショップに参加し、様々な考えや取り組みを学び、つながりもできて、持って帰ってきたものを風の工房のこれからの活動に取り入れ、アート活動をメインにしようと確信したのだった。

 それまでの僕は障害のある仲間の表現したものは、稚拙な表現であり、発達年齢の低い段階の表現として見ていたのだった。それは当時自分が発達心理学の専門書を読み漁っていたこともある。また、芸術、美術、アートという世界は、まさに学校時代の美術教育で刷り込まれたあの教科書の世界であり、表現技術を極めたうえで見られる有名な作品こそがアート、特別な世界のことだと思い込みをしていたのだ。僕自身が従来の美術の枠組みに囚われていたのだ、仲間たちの表現する世界もアートだと言っていいんだと、気付いた時だった。

 粘土の作業場でのデキゴト、そして日本障害者芸術文化協会から得たものは、思い悩んでいた僕に、風の工房の日々の活動のメインにアート活動を据えようと決心させたのだった。それからというもの風の工房の収入を目的とした、いわゆる作業活動を徐々に減らし、アート活動(以後表現活動という言葉にする)を一人一人の仲間にあったものを考え、提供し、仲間が興味を示さなければまた別の手を考え……と、個別に表現活動の在り方を手探りで探していった。いつの間にかアートザンマイの毎日となっていたのだ。(続く)

第1回 つらつら振り返って

 『なんで、あなたは障害のある人のアート活動を始めたの?』という質問をよく受ける。しかし、だんだんと記憶が薄くなって、『さていつから?』『どうしてだっけ?』が曖昧になっている。まあ、その前に、なんで僕は障がい者福祉の仕事に足を踏み入れたのかから始めなければならないかもしれないが、そのことはいずれ触れることにする。

 今から30年ほど前、僕は職員として所属していた社会福祉法人かりがね福祉会のバックアップのもと、障がいのある人5名と自分の家族とが実験的に小規模で共同生活をする『風の工房』を開設し、活動をはじめた。当初はパンの製造販売、農作業、陶器の製作などを通じ、それぞれの活動において、障がいのある仲間とそれぞれにできることを協力しあっていくことで、いずれはその集団として自立した生活を実現しようと夢見ていた。しかしそんなに甘くはない。収益はさほど上げられるわけもなく、次第に僕は仲間たちに『きちんとやって!がんばって!これじゃあ売れない!』といった言葉を投げかけるようになり、対等な関係、と言いつつ現実はひどい上から目線で仲間を見ている自分になっていった。日中だけ『風の工房』に通ってくる仲間も増えていたこともあるのだが、『こういう状態って自分が望んだことなの?』と自問自答する日々が続いた。何より仲間たちが僕の顔色をうかがうようにもなり、これじゃあ僕は独裁者じゃん。この小さい集団として自立することばかり求めていて気が付いたら間違った方向に走っていたのだ。

 ある日のこと、粘土の作業場でお皿や小鉢とかの器を作っていたのだが、それはどう考えても売れるシロモノじゃあないと、ぶつぶつと文句を言って、仲間が作っていた器をつぶしていた。仲間たちはそんな僕の顔色を窺っている。その時の彼らが作るそのいびつな形は本当にいけないのか? それは僕自身が売れるものとはこんなもの、という勝手なイメージを持っていたからであり、なんと狭量な考えだろうかとふと考えた。ちょうどその時、僕は画家の田島征三さんが滋賀県の信楽青年寮に入り込んで、そこで生まれる粘土の造形を高く評価して本にした、『ふしぎのアーティスト』という本を読み始めたときだったのだ。田島さんは青年寮でそこの寮生さんが作り出したものを、職員がいびつだとか売れそうもないからと評価していなかった現場を見て、これこそがおもしろいカタチだし、アートとして素晴らしいと職員さんたちに伝えて以来、素晴らしい造形作品が生まれ始めたことを書いている。全く僕がやっていたことを指摘されたように思い、鈍い自分の頭を殴られたようだった。

 『こんなつまらない粘土はやめようか。』と何気なく仲間に伝えたところ、彼はうんうんと頷いて、その作業場を出ていってしまった。僕の勝手な価値基準を彼らに押し付けていたことを痛烈に問われた瞬間である。その場に残された僕はしばらく呆然としていた。このジケンは今でも鮮明に思い出される風景なのである。第2回目につづく

※『風の工房』では障がいのある人を仲間と呼んでいたが、今の時代なら利用者と言われ、職員は支援者と言われる。支援者と利用者の関係……どこか違和感を持つ僕である。