盲目のヴォーカリスト&ドラマー・中田芳典さん

ステージにいる自分と、お客様との間に生まれた熱を通じて会話ができている

松本市を拠点に、ドラマーとして精力的に活動されている、盲目のミュージシャン、中田芳典さん。障害のある無しにかかわらず積極的に仲間の輪を広げながら、ご自身の夢をゆっくりと、エネルギッシュに実現されていらっしゃいます。松本市あがたの森講堂などで定期的にコンサートを主催。開催回数を重ねるごとにコンテンツを増やし、幅広い個性の方々が演者として参加できる会を目指して奮闘されています。そのような音楽活動をはじめ、日々の思いやこれまでの経験など、さまざまな視点からお話を伺いました。

先日、中田さん率いる「蒼星バンド」のあがたの森でのコンサートを拝見させていただきました。とても楽しいコンサートでした。中田さんがバンド活動を始めたのはいつからですか? また、中田さんはヴォーカルとドラムを担当されていましたが、ドラムという楽器を選んだきっかけは何だったのですか?

中田 バンドを始めたのは2016年からです。ドラムを担当しているのはやっている人が少ないから(笑)。若いころに少しドラムをやっていた経験もあるのですが、ドラムを担当してくれる方はなかなか見つからなくて。本当は僕もヴォーカルだけやっていたいんですけどね。

蒼星バンドのメンバーはどのようにして集まってこられたのですか? 松本市在住の方だけではなく県外から参加している方もいらっしゃいますよね。

中田 ピアノを担当してくれている大槻和彦さんは横浜在住のピアニストでコンポーザーでもあるんですが、あるとき彼が安曇野でコンサートを行ったときに聴きにいったのが出会いです。それをきっかけに彼のピアノ教室に何度か通わせていただき、やがて私の曲の編曲なんかをお願いするようになって。そして一緒に活動するようになりました。その後、私が暮らしている地域の福祉施設のコーディネーターの方からも一緒にバンド活動ができる演奏家をご紹介いただいて、徐々に今のメンバーがそろってきました。

中田さんは日常的に鍼灸の先生もをされているんですよね。

中田 はい。でも鍼灸治療院はもう閉院しました。私は26歳ごろに網膜色素変性症という病気になり、視力の問題で生活が困難になり、盲学校に通って鍼灸の資格を取り開業して仕事をしていたんです。けれど音楽がずっと好きでやりたかったものだから、自分で仕事の定年を設定し、引退してからは自分の好きなことをやろうと決めていました。それで今はシンガーソングライターをやっています。ちなみに今、65歳です。

失明してしまうのなら「今、何をすればいいのだろう?」

中田さんは長野県のどちらでお育ちになったのですか?

中田 私は木曽郡の小木曽で生まれ育ちました。松本市で民芸家具に携わっていた時期もあるのですが、そこを辞めてまた木曽に戻りました。父が木曽で建設の仕事をしていたので、兄とともに父の仕事を手伝っていたのです。そのころですね、視力を失ってきたのは。それで盲学校へ通い始めたのです。

中田さんが20代半ばで発病した病気についてもう少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?

中田 はい、大丈夫ですよ。私は網膜色素変性症という病気で、これは先天性のものでした。生まれつきもっていたらしいです。網膜の細胞がだんだんと死んでいく病気で少、しずつ視野が狭くなっていって最終的には全く見えなくなるんです。26歳のときに急に視野が狭くなり「おかしいなぁ」と思い信大病院に行って診てもらったらお医者さんに「将来的に失明します」と言われまして。その時はまだ見えていたものだから、本当にそんなことになるのか?と思い、ほかの病院でも診てもらったんですが診断はみんな同じでした。やがて失明してしまうのだったら「今、何をすればいいのだろう?」と本当に悩みました。病院の先生から私と同じ病気の方々は鍼灸の資格を取って自立した生活をしている方も多くいるとお聞きして、私自身も親に甘えていないで何とか自立して生きていきたいと思っていたので決意し、松本市の盲学校に入学しました。その後に資格を取って市内で鍼灸院を開業しました。

鍼灸の仕事をしながらも音楽をやりたいという情熱はどんどん大きくなっていったのでしょうか? どんな瞬間に「よし! 音楽をやるぞ!」と決意されたのですか?

中田 そうですね、思いはどんどん大きくなりました。それはですね、目が見えなくなってからヘルパーさんと散歩に出かけたときです。ヘルパーさんが「ここにタンポポが咲いていますよ」と教えてくれたんですね。目が見えないから手でタンポポを触って確かめてみたわけです。目が見えていたころは上から眺めるだけで花に手を触れてみたりはしませんでしたよ。でも実際にきちんと触れてみると人間と一緒で1本1本ぜんぜん個性が違うことに気がついて、「あぁ、いいなぁ」と思ったんです。そうしたら自然に頭にメロディが浮かんできて。数日後にそのメロディにつけるための詩を書きました。それが私が最初につくった「タンポポ」という曲です。

タンポポのお話は中田さんのポジティブな生き方や感性が伝わってきます。

中田 以前、ある疾患が原因で失明を言い渡された男性に「僕は死にたいと思ってしまった。中田さんもそう思ったことがありますか?」と聞かれました。気持ちはすごくわかるんです。わかるんですが、私自身は死にたいと思ったことはありません。人は必ず死にますので、それまでは生きたらどうだろうか?と。生きなければいけないんです。目が見えなくても曲をつくって、自分の思いを曲に乗せて、健常者の仲間たちとバンドをやり続けていたら「あの人がやっているなら自分も何かできるかもしれない」と思ってもらえるかもしれないなあと。そんなふうに言うと少しかっこよすぎるかもしれないですが(苦笑)。それだけではなく自分たちの音楽を多くの人に聞いてほしいというのももちろんあります。あと、普段面と向かって言いにくいことも歌にすると伝えやすかったりしますしね。「愛している」とか「大好きです」とか(笑)。

なるほど。最近ではさらに落語も始められたとか?

中田 落語はね、仕事が終わって一人になった時間にラジオで聴き始めて。これは面白いな、自分でもやってみたいなと思って始めてみたんです。

興味のあることは臆さずとにかくやってみるという姿勢が素敵です。

中田 みんな胸の奥にそういう興味や夢を持っているんじゃないですか。ただ自分でスイッチをオンにするかどうか、発揮しようと思うのか。それだけですよ。

音楽や落語を通して気づきみたいなものはありましたか?

中田 そうですね、ステージに立つとお客様と自分たちがいて。その間に空気があって。
ちょっとトチッたりすると、特に落語なんかだと空気が冷たくなるのがよくわかりますし、ウケるとワーッと熱が生まれる。そうすると、お客様とその生まれた熱を通じて会話ができているような感覚になるんです。

定期的なコンサートだけではなく松本市内の小学校などでも演奏されているとお聞きしたことがあります。小学校での演奏企画はどのような経緯で?

中田 それは私が小学校、中学校に講演で回っているご縁からなんです。「ハンディキャップがあっても人はみな同じ」というテーマで講演をしていまして、小中学校の人権教育の一環なのです。毎年7月から11月くらいまでの期間に実施しています。国語の教科書に点字についての記載があるのですが、そのへんからのつながりです。講演だけではなく演奏もやってみませんか?というお話をいただき、PTAの方々の主催で呼んでいただきました。呼んでいただけるのであれば私としてはずっと続けていきたい活動です。

現在、本当に精力的にご活躍されていらっしゃいますが、今後もいろいろな希望や企画などお考えになっていらっしゃると思います。松本市で演奏をやってみたい場所などありますか?

中田 あります、あります! 演奏してみたい場所としてはまつもと市民芸術館の小ホール、島立のハーモニーホールの小ホールですね。100人くらい集客できるようになったらやりたいです。そのために演奏の腕も磨いてどんどん頑張らねばなと。バンドのメンバーも充実してきましたから。

ずっと思っていたんですが、本当にお肌がツヤツヤで若々しいですね。何かお手入れなど気をつけていらっしゃるのですか?

中田 いやいや、お手入れというのはほとんどやってないんですが、自然の枇杷の葉を玄米焼酎に5年ほど漬け込んで、それで化粧液のようにつけているだけです。

飲むのじゃないのですね!

中田 いや飲むこともできますよ(笑)。あとは玄米食もあるのかと思います。

取材・文:小笠原志津子

『バリアフリーなあそびば』へようこそ♡Part2

「日常生活の中の彩り」
と聞くと、みなさんはどんなことを思い浮かべますか?

ちょっとリッチなスイーツ
かわいいがつまった雑貨屋さん
お気に入りのお洋服
内装がすてきな宿でくつろぐ旅…

わたしは、
普段の生活よりちょっとだけ背伸びして味わう、非日常のことを思いうかべます。

でもそんな、キラキラした非日常が味わえない人生を送るしかなかったら?

5年前、わたしは養護学校の先生をしていました。
車いすに乗っていたり、医療的なケアを必要としたりするけれど、
小学校の教科書を使って学ぶ普通の小学生たちのクラスの担任をしていました。

その中の1人Aちゃんは、
脳動静脈奇形から脳内出血を起こし、
その後遺症のため医療的なケアが必要になり、養護学校に転校してきました。

Aちゃんは、何の前ぶれもなく、
登校班で通う通学路で脳内出血を起こして倒れてしまいました。
一命は取り止めたものの、半身に軽い麻痺が残り、
出血部が延髄だったために嚥下反射が起こらなくなってしまい、
口からごはんを食べられず、
胃に開けた穴(胃ろう)からペースト食を注入していました。

Aちゃんを含めたクラス全員で出かける時に困るのが、食事場所。
Aちゃんが食べられるミキサー食を提供してくれるレストランがないのです。
行くのは結局「いつものとこ」。
選ぶ余地がないのです。

「嚥下障がいがあっても食べれる、ちょっとリッチなスイーツがないなら、わたしたちがつくればいいじゃん!」

新型コロナウィルスが流行しだした2020年。
なかよしのRurukaとオンライン飲み会をしていて、なぜかそんな話になりました。

わたしの中でずーっと引っかかっていた、
Aちゃんの「食事問題」。
ある日いきなり「障がい児」になってしまったAちゃん。
それは特別なことではなく、
誰しもが病気や老化によって「障がい者」になるかもしれない。
そうなったら不便かもしれないけど、
でも、
「食べたいと思ったらちょっとリッチなスイーツが食べられる」
「行きたいと思ったらどこにでも遊びに行かれる」
障がいの有無にかかわらず、
それが「当たり前」なインクルーシブな社会をつくっていきたい。

8時間飲み続け、
画面越しにそんな熱い話をしたわたしたち。
よっぱらったノリで(!?)
「障がいの有無にかかわらず楽しく生きて生かれる社会を目指す」団体【バリアフリースタイルルルカ】は誕生したのでした。

わたしたちが作ったデザートは、
信州産のフルーツや野菜を材料にして、
嚥下障がいがあっても食べられるよう加工したものです。
水分を加えてかたさを調整すれば、胃ろうから注入することもできます。
そしてこだわったのは、「インクルーシブなこと」「見た目が美しいこと」。
家族みんなが同じおいしく食べられる味や食感に仕上げ、
かわいい見た目にもこだわりました。

個人からの注文はもちろん、
「コロナ禍で感染リスクを避けるため、校外学習を中止せざるを得なかったけど、クラスの子達にせめておいしいものを食べさせたい」
という養護学校の先生からもご注文をいただきました。

今わたしたちが力を入れて取り組んでいるのは、
「バリアフリーなあそびば」と称した
障がいの有無にかかわらずあそびに行くことができるマルシェイベントです。

コロナ前から
「マルシェイベントってたくさん開催されてるから行ってみたいけど、障がいがある子を連れて行きづらいし、
障がいがある子が楽しめるかどうか…」
という声を聞いていたので、
「じゃあそんなイベントつくったらいいじゃん!」とこれまたオンライン飲み会のノリで(笑)、
2022年、第1回「バリフリマルシェ」というイベントを地元千曲市で開催しました。

すぐ上の写真は、2023年1月に安曇野市のあづみの住宅公園で第3回目の「バリフリマルシェ」を開催した時のもの。

わたしたちが運営に携わったイベントは、この安曇野で5回目。
回を重ねるごとに賛同してくださる方が増え、
地元千曲市を飛び出し、長野市、安曇野市、諏訪市…といろいろな場所で「バリアフリーなあそびば」をつくる機会をいただいています。

地元千曲市や近くの長野市でやった時は、代表西條の娘の友達や、わたしの養護学校時代の教え子がたくさんあそびに来てくれたけど、
遠い安曇野ではどうなんだろう…
と不安もありましたが、
老若男女、たくさんのお客様があそびに来てくださり、
その中に車いすに乗った子や、
補聴器をつけた子、
病気があるのかな、と思われる子を何人も発見しました。
「うちの子には知的障がいと自閉症があるんです」と話しかけてくださったママさんもいました。

障がいのある人とない人が、
当たり前のように場を共有している。
そんな光景はカラフルに輝いているようで、いつもわたしの胸を熱く震わせます。

今わたしは小学校で発達障がいのある子ども達が通う通級指導教室の先生をしています。
そして、特別支援教育コーディネーターの仕事をしています。
わたしの仕事は、発達障がいのある子と在籍学級とを、必要な支援とをつなぐことです。

地域の小学校にいると、
養護学校はまるで遠い世界のようです。
でもAちゃんや、
Aちゃんのほかたくさんの、
養護学校でかかわった子ども達のことを今でもよく思います。

養護学校にいる子ども達と地域をつなぐこと。
それが養護学校から小学校に異動したわたしのミッションだと思うのです。
地域のみんなに養護学校に通う子ども達のことを知ってもらって、
当たり前のように共に生き、
みんなが障がいの有無にかかわらず楽しくカラフルに輝ける社会をつくっていかれたら…
そんな願いをこめて、今日もわたしは帰宅後22時、パソコンに向かって作業を始めるのでした。

さあ皆さん、ようこそ『バリアフリーなあそびば』へ♡