[対談]金井ケイスケ×川崎昭仁 パラリンピックから『Moon Night Circus』、そして多様性のある新たな社会へ

[対談]金井ケイスケ×川崎昭仁 パラリンピックから『Moon Night Circus』、そして多様性のある新たな社会へ

松本市在住のサーカスアーティスト、金井ケイスケさん。金井さんは長くスローレーベルの一員として障がいある方とのパフォーマンス作品を手掛けてきた方です。そして東京でのパラリンピックではサーカスシーンの振り付けとして開会式、閉会式にもかかわっていました。このクリスマスには「月」をテーマにしたサーカス公演『Moon Night Circus』を開催、パントマイムやジャグリング、ダンスに音楽と、さまざまなパフォーマンスが融合したステージです。そして開閉会式に出演したパフォーマーが数多く参加、そのお一人が、Streaming REDというバンドやソロで活動している“車椅子のギタリスト”川崎昭仁さん。お二人にパラリンピックのこと、『Moon Night Circus』のこと、これからの展望について聞きました。

金井さんと川崎さんの出会いは、どんなタイミングだったんですか?

川崎 もうパラリンピックの開会式のリハの時ですよね、国立競技場で。

金井 実は僕は2020年のパラリンピックのオーディションで川崎さんの存在を知りました。

パラリンピックにかかわったことでの気づきなどがあったら教えてください。

川崎 開会式で片翼のためにいつか空を飛びたいと夢を見、悩んでいた少女が、なかなかその勇気を持てずにいたけれど、いろいろ周りの励ましや後押しによって最後は飛び立っていくという設定でショーをやる、というお話を聞いたときは、正直よくある感じだな、ありがちなストーリーだなと思ったんです。その少女に勇気を与えるデコトラで登場するバンドに僕も出演していたわけですが、すごく高い評価をいただけたのは、その「ありがち」なのがわかりやすくて良かったのかな、って。それはどういう意味かと言えば、たぶん世の中の障害者へのイメージが、もちろん見下ろしているわけじゃないけれど、まだまだそういうものなんだろうな、時間がかかるなという思いはありました。

【NHK】「世界のホテイ全盲のギタリストらとデコトラで熱演 | 開会式 | 東京パラリンピック」より

今おっしゃったのは、障がいある方に対する見方がまだ、そういうステレオタイプなレベルで止まっているように感じられたということですか?

川崎 そうです。そう思うと、わかりやすいストーリーが良かったのかなって。

そこはまだまだ、社会が変わっていかなければいけないところですよね。そして川崎さんにとっても挑戦のしがいがあるというか。

川崎 そうですね。だからパラリンピックの閉会式にかかわれたことが、そういう意識を一つ上げると言ったらおこがましいですけど、多くの皆さんに理解してもらえるきっかけになっていたとしたら、すごくうれしいですね。

金井 川崎さんも言ったように、高い評価を得られたという手応えがすごくあったと思うし、やっぱりわかりやすさは多くの方々にメッセージを届けるためには必要なことなんだなって表現者としても、障害ある方と作品づくりをしている身としても改めた感じたことです。その一方で、日本では今回のパラリンピックが始まりとなって、その先に社会がどう変わっていくかが大事だと思いました。

川崎昭仁さん川崎昭仁さん

金井さん2021年12月24日、25日に『Moon Night Circus』を開催されるわけですが、東京でのパラリンピックにかかわったことが、このイベントにつながっている一つの理由でもあるんですよね?

金井 そうですね。やっぱり長野県で何かを、長野県で暮らし始めて出会った人たちと何かをやりたいなという思いは以前からあったんです。そのときに川崎さんと出会ったのはやっぱり大きなきっかけでもありますね。「あ、この人、長野に住んでるんだ。なんかイベントあったら一緒にやりたいな」って思っていました。

川崎さんのところに金井さんからご連絡があったときはどう思われましたか?

川崎 僕もパラリンピックの準備をしているときから、出演者やスタッフの方の中に、長野県から来ている人はどのぐらいいるのかな?ということが気になっていました。残念ながら僕自身はデコトラのメンバー以外のかかわりがほとんどなかったんですね。そんな中で金井さんが松本から来ていると聞いて、仲間がいると勝手に思ったし、すごく親近感を感じていたんです。やっぱり同郷の人は、同じ仲間でもまたちょっと違うところにあるじゃないですか。僕も東京などでいろいろイベントに参加したりすることもあるんですけど、地元長野に戻ってきて、またそのときの方々と何かやりたいなと思っていたので、その想いをさっそく形にしてくださって、誘ってくれたのはすごくうれしかったですね。

川崎さんは普段、アーティストとしてどんな活動をされているんですか?

川崎 一番多いのは学校などに出かけていって講演でお話ししながら、演奏もするみたいなことが多いですね。最初は真面目な、お堅い話もするんですけど、後半はロックの演奏で体育館が一気にライブハウスに変わるみたいな。今は(コロナもあって)こういうご時世ですから、観てくださっている皆さんも声を出せないじゃないですか。みんなが声を出せないぶん、俺たちが最高の音を出すから、一生懸命、手が折れちゃうくらいの拍手をしてくれよ!ぐらいに前もって伝えるんですね。先日うかがった中学校では、最後の曲になって我慢できなかったのか、教頭先生がステージのかぶりつきに飛び出してきたんですよ。それを見て、生徒の皆さんも「あ、行ってもいいのかな?」みたいな感じでぞろぞろやって来てくれて。実はコロナ前はそれが普通の光景だったんですけど、ここ1、2年はなかったので、ちょっとうれしかったですね。僕らも興奮しちゃいました。音楽ってそこまで気持ちを高揚させる力があったんだって、改めて感じて。皆さんも楽しかったと言ってくれました。そのほかにライブハウスで演奏したり、地元のイベントにも参加させてもらっています。

中学校で演奏する川崎さん中学校で演奏する川崎さん

金井さんは川崎さんの演奏、アーティストとしての魅力はどんなところに感じていらっしゃいますか?

金井 やっぱり全身全霊で弾いてるところですね。演奏しているんだけど、演出的な目線から言うと、演奏を超えて、それが身体の表現になっていると僕は思ってるんです。そこは川崎さんの弾き方の魅力でもあるし、それを素晴らしい武器にしていってほしいし、今回の作品では川崎さんの表現とどうギャップをつけるかみたいなことを考えますね。今回のお客様の中にも川崎さんの演奏している姿を見たことがない人がたくさんいらっしゃると思うんですよ。だから最初は車椅子の人が出てきたと油断させておいて、後半でギターを弾いたら「え、この人すごくない?」「とってもワイルドじゃん」という感じをつくりたいんです。川崎さんはミュージシャンではあるけども、同時にパフォーマーでもあると感じているので、今回はその幅の広さを引き出して、パフォーマーとしての魅力を目覚めさせて、咲かせてほしいですね(笑)。

ほかのパフォーマーの皆さんと関わる瞬間もあるんですか?

金井 いえいえ逆です。基本的には、ほかの出演者とかかわっている時間ばかりです。演奏で誰かとかかわるより、楽器を持たないでかかわっている時間が長いかもしれないですね。

川崎 最初にオファーをいただいたときは、ギターを弾くだけだと思っていたんです。いろんなことをすることに戸惑いながら、でも今はそれも含めて楽しんでいます。これまで何回もステージに立たせてもらってはいますが、ギターを持たずにというのは初めて。だからこそ、自分にこんな引き出しがあったんだという、うれしい発見をさせてもらっています。

 金井ケイスケさん金井ケイスケさん

金井さん、今回のステージはどんなコンセプト、構成でつくられるのでしょうか。

金井 基本的にはサーカス的なつくりにしています。サーカスってオムニバスなんですよね。でもバラバラに一つ一つの出し物、ナンバーがあるというよりも、あるテーマによってつながっている。その一つのテーマが「月」です。パラリンピックにかかわっていた皆さんもたくさん出ます。出演者は小学生から50代の方々もいますし、ジャンルもいろいろです。そして川崎さんは車椅子で登場してくださいますが、ほかの健常者と言われる人たちは初めてのチャレンジをしてる人たちがたくさんいます。そういうメンバーの良いとこ取りをするのが演出としての僕の役割。それぞれの良さを抽出させてもらった、一番美味しいところばかりで舞台をつくりたいと思っています。

川崎さんはほかのアーティストの皆さんとの共演は刺激になりますか?

川崎 そうですね。今まで客席から見ていたようなパフォーマンスを、同じ舞台で、しかも真横でやっているので、迫力が違いますよね。

川崎さんの音楽の見せ場は、子どもたちがかぶりつきで盛り上がっちゃうようなシーンが一つの見せ場になったりするんですか?

川崎 そうですね。一応、座席は決まっていますから、気持ちがステージの真前に来てしまうくらいの、惹きつけられるような演奏ができたらいいなとは思っています。

ライブハウスで演奏する川崎さんライブハウスで演奏する川崎さん

川崎さんは普段は長野県の福祉協議会で働いっていらっしゃるんですよね。今後こんなことをやっていきたいなど夢や野望があったら教えてください。

川崎 僕は福祉教育と言って、子どもに限らず大人にも、共生や多様性、福祉の心などを学んでもらうことを推奨する仕事をしています。僕自身を見てそういうものを感じてもらうことももちろんですが、それよりも身近にいる人を思いやることが福祉の心の基本だと思います。人と人とのかかわりの中で、そうしたものが生まれていけばいいなと思っています。そして福祉と言うと堅い印象があるかもしれませんが、講演やイベントにも、少しずつ柔らかくて、新しさを取り入れながらやらせてもらえればと思っています。そこが公的な組織にいると実は難しいんですよね。

川崎さんは、お仕事中も金髪なんでしょ?

川崎 そうです。これもすごく言われたんです。入社するときに「黒くしてきて」と言われて、一度は黒くしたんです。でも1カ月くらいで金髪に戻しちゃいました。

いや、そういう一歩が大事なんですよね。

金井 大事です。
川崎 就業規則に書いてあるからと言われたんですけど、どこにも書いてなかったので、上司の方と「多様性を謳っているところが、なぜ金髪がダメなの?」と言った言い合いをして今に至っています。

長野市には覆面議員さんもいますしね。

川崎 グレート無茶さんですね。はい。

金井 へえ、そうなんだ。

金井さんが演出したSLOW CIRCUS PROJECT『T∞KY∞(トーキョー)〜⾍のいい話〜』金井さんが演出したSLOW CIRCUS PROJECT『T∞KY∞(トーキョー)〜⾍のいい話〜』

金井さん、今後、県内でどんな活動をしていきたいと考えていらっしゃいますか。

金井 いろいろやりたいことのイメージはあるんですけどね。実はそもそも自分がプロデュースして公演をするのも『Moon Night Circus』が初めてなんですよ。おかげさまでチケットは完売になりまして。とてもありがたいことです。これからも県内で、劇場は敷居が高いと思っていらっしゃる方々、劇場から足が遠のいてしまった方々、なかなか劇場に来られない方々、そして子育て世代の方々にも、いろいろな文化芸術に触れてもらえるような機会、入口を増やしていかれればいいなと思っていますね。
また障害のある方たち、多様な世代、プロとアマチュアが混ざったようなものだったり、それこそスローレーベルが首都圏でやってるようなソーシャル・サーカスなどの活動も、スローレーベルと一緒にコラボレーション的に実施できたらと思っています。

川崎さんと金井さんのパワーでどんどんことを動かしていかれたらいいですね。

金井 そうですね。川崎さんは福祉と音楽の融合を体現する存在でいらっしゃいます。文化芸術と福祉、あとスポーツなんかも混ざったようなこと、それこそサーカス的なことができれば、いえやりたいと思っています。

金井ケイスケさんと川崎昭仁さん

第7回「アートパラ」が提起したもの

実行委員長  内山 二郎

  長野冬季パラリンピックに合わせて、1998年3月1日から14日まで開かれた障害者の芸術の祭典「‘98アートパラリンピック長野」。障害者の多様な活動を芸術の観点から捉え直そうという企画は、障害者のアート作品や音楽や舞台表現が、多くの人の目に触れ、高い評価を得たことで一定の成果を挙げたと言える。「障害の有無や種別にかかわらず、素晴らしいものは素晴らしいと認め合う社会を実現したい」という願いから始まった「アーパラ」は、障害者に対する考え方や支援のあり方を問い直すきっかけにもなった。

  長野県内ではまだ、障害者の創作活動は施設や個人の取り組みにとどまっていた中で、サポーターを養成して創作環境を整え、障害者芸術を広めようというサポーター養成講座は「アーパラ」の熱いムーブメントの中から生まれた。
  1999年2月、サポーター養成講座の第1弾が、長野市の県障害者福祉センター「サンアップル」で催された。県内の知的障害者施設の職員らを対象に、「’98アートパラリンピック長野」公募展審査委員を務めた絵本作家のはたよしこさんが「障害を持つ人たちの芸術活動の可能性」と題して講義。絵画は小県郡真田町の「風の工房」指導員の関孝之さん、身体表現は東京のパフォーミング・アーティストの風姫(かざひめ)さん、陶芸は大阪の陶芸作家の清水啓一さんが講師を務めた。参加者は、それぞれが抱えている課題やサポートの方法などについて話し合いを深め、充実した講座になった。こうした研修は、現在も各地で展開されている。

 日本で、障害者の芸術活動が脚光を集め始めたのは、国際障害者年の最終年(1992年)を記念した芸術祭がきっかけと言われている。障害者の才能を伸ばしたり芸術活動の場の確保に取り組む団体が増えたのは、「アーパラ」が一つの契機になったと言えるだろう。特に知的障害がある人の作品は、形式にとらわれない自由な表現が前衛芸術家たちの目に新鮮に映り、「健常者が喪失してしまった感覚を思いださせてくれる新しい芸術」として注目を浴びるようになった。以来、公募展でも知的障害者の作品が多数入選している。彼らの作品には、現代アートだけでなく、現代社会の閉塞状況を打ち破る可能性が潜んでいるように思える。その一方で《障害者アート》を強調しすぎることで、逆に彼らの芸術活動を狭い枠に閉じ込めてしまう危険性も否めない。

 障害者の芸術をどう評価し活動の場を広げてゆくか。その試行錯誤は23年経った今も続いている。

第7回 心の中を荒れ狂う嵐に振り回される人の表現

 20年ほど前だろうかCHIZUMIさんは、ある真夏の晴れた日、黒い日傘をさし、上から下まで黒づくめの服を着て風の工房にやってきた。カゲロウみたいだな、という第一印象。話を聞くと、今彼女がすがりつくように頼りにしているS病院の心療内科のドクターから、「絵を描くことが好きなら風の工房に行ってみたら?」と勧められたという。たまたま僕はそのドクターとは知り合いでもあった。一緒に食事をしながらお話を伺うと、CHIZUMIさんは大学の研究者であるご両親のもとに生まれ、幼少期から研究に忙しい両親ではなく叔母さんの手で育てられたという。子供のころから両親に対して複雑な感情があり、その感情をうまくコントロールできず、言いようのない不安感に襲われたりし、長い間リストカット、過剰服薬、飲酒などを繰り返しているという。とても頭のいい方で難しい心理関係の専門書を読み漁り、また医療も渡り歩いたり、ナントカ療法を受けたり、当事者の会に出たりもしたが、湧き出る言いようのない不安感、圧迫感は消えてくれないと話してくれた。詳しくはわからないけど子供のころから抱えていたご両親との向き合い方に悩んできたことが根っこにあるのだそうだ。

いろいろ苦しみ、苦労して生きてきたんだなあ、と思いつつ彼女が持参したスケッチブックを見せてもらうと、そこには明るい広場でいろんな動物と仲良く遊び戯れている様子が描かれたイラストが並んでいた。僕は失礼にも『ふーん。正直言うと絵はとても上手に描けているけど、あんまり面白くないなあ』と言ってしまった。そしたらCHIZUMIさんは目を輝かせて『そうでしょ。これドクターに会う時に見せる絵なんだ。もっと別なものを描きたいのだけどね』との言葉が返ってくるではないか。彼女の心の中の苦しさを聞かされていたので『そんならあなたの心の中のどろどろを描いてしまえば? その代わりその絵はあなたの排せつ物みたいなもんだから、ここに捨てるように置いていくことが条件だけど』と話すと、彼女が目をキラキラさせて『そうさせてください』と言い、さっそく工房の画材で描き出した。いきなり真っ黒の下地の上に顔のない人物が登場し、打ちひしがれている風景、リストカットのなまなましい血がだらだら流れている風景、大量の薬の中に溺れている自分、など。まあはっきり言って気持ちのいい絵ではない。絵はだんだんと変化し、蛇や、トカゲが現れ、そこにはこれでもかというほどの苦しさが表現されていた。

 彼女は「どうもこれが私に住み着いて私を苦しめているやつらしい」とあっけらかんと嬉しそうに言うのだった。僕も調子に乗って苦しいはずのことを笑い話に変えたり、普段飲んでいる大量の薬を並べてCHIZUMIさんとダジャレを考えながら新しい薬の名前を考えて、薬の標本箱みたいなものを作って彼女の通う病院のロビーに作品と一緒に展示させてもらった。知的障害のある仲間たちがCHIZUMIさんの絵を見て、『わー、気持ちわりい』という率直な反応も楽しんでいて、みんなと打ち解けて友達になっていった。風の工房では明るく、笑い声が絶えず、本当に苦しい心の病を抱えているのかと思ってしまうほどだった。苦しい内面を抱えているのだが、それを吐き出すように表現することを彼女は楽しんでいた。『専門書ではわからなかった私を苦しめるものが、だんだんわかってきた気がする』と話してくれたが、でも夜一人になると不安感は湧き出てきて、思わず飲酒と過剰服薬に走ってしまうらしい。
 一年ほど風の工房に通ってきただろうか、とにかく描きまくった。そしてある日『おかあさんが倒れたので、実家に帰ります』と言い残し、風の工房での表現活動はぷっつりとなくなってしまった。でも実家に帰っても彼女は描き続けていた。年に数回電話で近況を知らせてくれ、『お母さんの介護をしていると今までのような絵が描けなくなってきた。どうしましょ。』と言う。それはあなたが心の回復に向かっているのかも、と伝えると、『えーそんなの困るー』と言う。実家に帰っても相変わらずあの気持ちの悪い世界を描き続けていたのだ。しかし僕も風の工房を離れたこともあり、次第に連絡もなくなっていった。お母さんが亡くなり、そのショックもあったようだが、ますます絵を描き続け、地元でCHIZUMIさんの作品を評価する人が増え、個展が実現したり模したそうだ。ぽつぽつと連絡があり、足元がしっかりしてきたなあ、と思っていたのだが・・・・難しい難病も抱えていたCHIZUMIさんは一昨年、突然逝ってしまった。ゆっくりとおしゃべりをしようねと電話で話していたのに。

 彼女の絵を評価していた人が、彼女が遺した作品の作品集を作るというので、つたない僕の追悼文を寄せさせてもらった。今も、いろんなところへ出かけ、障害のある人の表現活動の場を提供している自分だが、あの気持ちのわりい(とはいえ僕はすごく好き)絵たちを思い出すたび、CHIZUMIさんが工房で心の中のどろどろを排泄する(嘔吐する)かのように絵を描きまくったあの時間は、果たして彼女にどんなシアワセをもたらしたのだろうか?と考える。彼女が仲間たちとけらけらと笑いあっている風景を思い出す。彼女が友達に『私にとっての最高のアートセラピストは関さんだ』と語っていたと聞いた。僕はそんなアートセラピーなんてしているつもりは毛頭なかったのだけど。

 FUKUさんも心の中に得体のしれないナニカを抱えながら暮らしている。彼の周囲の人たちが彼のことを悪く言っている、という妄想にとらわれ、世の中には怖いことがいっぱいだ、と悪いニュースに気を奪われているかのようにおびえながら暮らしている感じだ。風の工房に通うようになって、いろんなおしゃべりをしているうちに、きれいな女性の写真集や雑誌のグラビア写真の話で盛り上がり、そこに載っている写真画像を観ながらそれを絵に描いてみないか、と提案した。『いいですねえ』とFUKUさんはちょっぴり恥ずかしそうに照れながら、戸惑いながら、じっとその写真を観て、画用紙に向かって線を引いていった。たぶん彼は忠実にその写真を写しとっているつもりなんだろうが、現れた絵は元の写真とは全く別のFUKUさんワールドであった。油性ペンの線は戸惑い、ドキドキし、時にはすっ飛び、何とも言えない絵になっている。『すごいね!』と伝えても『そ、そうですか?』と答えるだけだった。色を塗りこんでみようかと提案したが、『いやもう疲れてダメです』という。僕の提案なんか余計なことだった。線画として十分な表現だ。しばらくはそんなやり取りで盛り上がり、いくつかの作品を生み出したのだが、FUKUさんは心の調子も良かったり、悪かったりでグループホームの自室にこもることが多くなった。そのうち、「本当は書道をやりたい、昔から習字を習ってきた。もっと上手になって有名な賞を取りたい」と言い、自室で習字をやるようになっていった。あのわずかな期間だったがFUKUさんの生み出した絵は今でもすごいと思っているが、何よりご本人はそうは思っていないらしい。風の工房を離れ15年ほどになりFUKUさんとの付き合いもなくなってしまったが、いつかまた絵を描きだしてくれないかなと願うばかりだ。

 NABEさんは若いころから自立して仕事をしなければ、という想いが強く、都会に出て働いたりもしたがうまくいかず、それがかえって心の不調を招いたらしい。風の工房に通うようになって、絵を描き始めたのだが、そこらにおいてあった週刊誌のかなりエロい写真を見てはそれを描きだした。僕も決してその手の写真は嫌いではないので、二人して『おー、エロいなあ。スケベだなあ』と盛り上がった。彼とは楽しいおしゃべりがたくさんあったのだが、その中に彼自身が心の中に抱えてきた鬱屈したこれまでのモノガタリもたくさん聞いた。そこで「NABEさんの苦労モノガタリを書いてみないか、そしてそれを多くの人の前で発表してみないか」と提案したところ、ノートにびっしりと、まさに自分の苦労モノガタリを書いてきた。たまたまある高校の福祉コース(女子高生ばかり)の授業を依頼されていたので、「ジョシコーセーの前で、これ発表してみる?」と提案したところ、彼は大いに張り切った。そして当日はなぜか白衣を着てみたいとの彼の希望で、白衣を着たNABEさんが登場し、僕は彼の横で、彼の作品を掲げる役割で登壇した。たどたどしくはあるが見事に自分の苦労モノガタリをノートを見ながら発表したのだった。ジョシコーセーたちは、僕なんぞが小難しく福祉とはと、話すよりはるかに強くNABEさんの話と絵のほうに反応した。当事者が語るチカラにはかなわない、と思い知ったことは言うまでもない。
 僕が工房を離れてからしばらく、NABEさんは就労と一人暮らしに挑戦したらしい。現在は別のアート活動をする事業所に通い、エルビス・プレスリーや、スティービー・ワンダーなどのオールディーズの懐かしいミュージシャンの絵を描いている。NABEさんが絵を描き続けていることがとてもうれしいし、そういった場を提供されていることもうれしい限りだ。

 CHIZUMIさん、FUKUさん、NABEさんが風の工房でユニークな絵を描いていたころ、僕は精神科領域の知識がなく、必死にその手の専門書を読んでいたのだが、この3人のことを考えてみても、照らし合わせてみてもピンと来ないでいた。まあ、そんなことはどうでもいいのだ。何より心の中を吹き荒れる嵐のようなものに翻弄されているけれど、必死に生きている。それを吐き出すかのように表現する場を提供することで応援することしか僕にはできないと思った。そこで松本市内のあるギャラリーとご縁があり、『病むチカラ展』というタイトルで3人展を開催した。なかなかの反響があったことを覚えているが、果たして3人にとってはどうだったのか?

〈つづく〉

太陽系セッション

 「信州音あそびの会」という音楽ワークショップを立ち上げて17年になります。現在では10カ所ほどの福祉施設や学校で現場の方々と話し合いによりプログラムを組み、定期的なワークを行っています。

 ワーク内容はアフリカやラテンアメリカのパーカッション演奏をメインに、歌や身体表現、ペインティング、映像をつかったイマジネーションワークなどいろいろです。各施設の利用者さんはもちろん、スタッフの方々も一緒になって音楽や表現を通してコミュニケーションを楽しみます。あらかじめ用意した「パフォーマンスやレクチャー」ではなくその場で生まれる「セッション」ですね。

 表現の世界に入ってしまえば障がいは個性に変わります。互いを認め合いながら自由に、そしてそれぞれの主体性を発揮して行うセッションは毎回何かを生み出します。

 音あそびでは一人一人に自己表現してもらい、それを参加者全員がシェアするメニューを必ずいれます。具体的には一人一人が表現した後に「生まれてきてくれてありがとう!」「ここにいてくれてありがとう!」とみんなで歌います。承認欲求を満たし、自己肯定感を高めてもらうためです。
 そして自己肯定感は「表現したい」欲求に変わります。人とつながることが難しい人でも「音あそび」の時間だけは仲間のエネルギーを感じ、今ここに生きていることの喜びを感じてほしいと思っています。「自分はここにいていいんだ」「自分はありのままでいいんだ」と。

 合奏は必ずしも合わなくてもいいと思ってます。むしろ音楽的に合わせることよりも、自分の出した音がみんなに受け入れられているんだという感覚を大切にしています。その合奏は、太陽系のようにそれぞれの星がそれぞれの自転や距離感を保ち、でも一つの引力圏内にいるイメージなので「太陽系セッション」と名づけています。それを長く続けているとカオスの中から、それぞれの施設ならではの音楽が生まれてきます。

 ワークにはごく少数で行う「個人ワーク」と大人数で行う「グループワーク」があります。それぞれのワークの中で思いも寄らない表現を出してくる人がいます。それを面白がれれば、こちらの世界も広がっていきます。逆にいつも来ているのにあまり反応がない人もいます。そんな人が突然あるとき表現しだすことがあります。その人なりの参加の仕方で「場」から、あるいは「音」から何かを感じ、表現に至った瞬間です。そんな時は本当にうれしくなって叫んでしまいます。

 今後は携わっている施設間をセッションやコラボレーションでつなげていきたいと思っています。「銀河系セッション」とでも言いましょうか。差し当たっては軽井沢の浅間学園と上田悠生寮の間でそれをもくろんでいます。そしていろいろなものが結びついて、障がいがある方もない方もいつでも笑いながらフラットにセッションできる場が広がっていくことを夢見ています。

 この原稿を書くに当たって改めて「音楽」や「コミュニケーション」を文章で伝えることの難しさを感じました。この文章を読んで興味を持って頂いた方、いつかみんなでセッションいたしましょう♪