すべてのアートは軌跡であり、
すべての暮らしは現在である。
未来はどちらもわからない。
2年前、僕らは小諸市のはずれにある古民家を自分達の手でリノベーションし赤ちゃんからお年寄りまで、障害の有る無しに関わらず誰もが集う居場所を作り始めた。いまだ現在進行形。
この家には、いつでも用事が溢れている。
1月。長野県の寒さのピークだ。雪は少ないけど小諸もまた浅間山から吹き降ろす風で耳が千切れそうに痛い。
みんなの家のメイン暖房は薪ストーブだ。信州カラマツストーブという枯れた松を資源として活用するために開発されたストーブがここでの暮らしに欠かせない。
デイサービスに行きたいという男性は稀だ。ところがタブノキを利用する男性達は家を出るとき、ワークマンスタイルでキャップを目深にかぶり、送迎車を庭に出て待っている。仕事へ行く気満々。そこに居るのは山へ行って薪を運ぶ働く男の姿だ。
タブノキはデイサービスとしての機能もあるが、それは暮らしの中の一部の機能。収入源ではあるけれど、僕らは制度を使う人も使わない人もスタッフも地域の方も皆でチームとして用事をこなす。でもやりたくないことはやらない。
山はどこも荒れている。放置されてしまった松林が台風やマツクイムシで無惨な姿になっている。そこにタブノキのお年寄り達は分け入っていく。お年寄りだけではなく子供達も。地域から来ている方も。丸太を転がし杉の葉を拾う。スタッフ達は夢中でシャッターを切る。
料理もDIYも遊びも外出もタブノキではすべての用事がごく普通の暮らしの延長にある。それは関係が固定化してしまう、やる側される側という構図を徹底的に解体しているからこその姿。
撮りためた写真は一日の終わりに全スタッフで共有し安心と興奮を共にする。
僕らの日常はまるでアートだ、と思うことはある。けど日常がアートだと意識した瞬間にそれはわざとらしい人為的な副産物に成り下がる。アートに対し、消極的な態度の無自覚だからこそのアート。
すべてのアートは暮らしの過去形なのでは?とすら思う。撮りためた写真を孔版印刷で印刷してもらい、自分達の手で撮影編集製本梱包まで仕上げ写真集を出版した。タイトルは「ともにいきる」。
紡ぎ続ける日常がまるで音のない音楽のように、僕らの中に溜まっていく。