愛しい世界

アート。
絵・写真・音楽・言葉。

この人の描いた絵が好きだ。という人がいる。
この人の寫す写真が好きだ。という人がいる。
この人の奏でる音楽が好きだ。という人がいる。
この人の紡ぐ言葉が好きだ。という人がいる。

その人達のみている世界が好きなんだ。
その人達がみせてくれる世界が好きなんだ。

 
そして、私はいま
私のみている この世界も 愛おしくて好きだ。

いつからか、気がつけば
この世界はきらきらとやさしかった。

家族、友達、今までの私のまわりのみんなとの時間
りんご畑での作業のなかでの自然からの恵み、智慧
そんなすべてのおかげで
きっと 世界のみえ方は 変わってきたのだと思う。

そして、一番大きなうねりをくれたのは、
やっぱり娘との時間だ。

思いきりゆっくりのペースで成長している
娘との暮らしのなかで
“ゆっくりもおもしろい。”ことを教わり。

育児書も読めず、ただ目の前の娘をみながら、な
娘との暮らしのなかで
“いまここにいる。”ことも教わり。

やっぱり迷惑をかけちゃうこともたくさんある
娘との暮らしのなかで
“ゆるしてもらう。”覚悟ができた。

“出来る”が少なくても、そこで笑っていてくれることで
まわりを癒してくれる
娘との暮らしのなかで
“在る。”を知り、
“ただ在る。”ことの大切さを抱きしめた。

そうしたら
世界はやさしく受けいれてくれた。
やさしく ひろがっていった。
美しい世界を 魅せてくれた。

その後、
息子も産まれ、成長し、ねえねに寄りそってくれる
息子との暮らしもまた
やわらかい世界をみせてくれている。

「お母さん、木に雪がついてきれいだよ。」と
伝えに戻ってきてくれる。

「お母さん、これ好きでしょ!」と
枝についた松ぼっくりを拾ってきてくれる。

みせたい!! あげたい!!と
愛を惜しまず巡らせてくれる。
やわらかい世界をみせてくれている。

そんな風に
子どもたちとの暮らしのなかで
たくさんのひかりを魅せてもらっている。
そして、これからも
たくさんの ひかりを みつけていく。

この 愛しい世界を 抱きしめていく。

一緒にみたい。
みんなにみせたい。を

愛にのせて
表現できたら
巡らせていけたら
それが
“娘と私のアート”なのかな。と。

【ともにいきる】

すべてのアートは軌跡であり、
すべての暮らしは現在である。
未来はどちらもわからない。

 2年前、僕らは小諸市のはずれにある古民家を自分達の手でリノベーションし赤ちゃんからお年寄りまで、障害の有る無しに関わらず誰もが集う居場所を作り始めた。いまだ現在進行形。

 この家には、いつでも用事が溢れている。

 1月。長野県の寒さのピークだ。雪は少ないけど小諸もまた浅間山から吹き降ろす風で耳が千切れそうに痛い。

 みんなの家のメイン暖房は薪ストーブだ。信州カラマツストーブという枯れた松を資源として活用するために開発されたストーブがここでの暮らしに欠かせない。


 デイサービスに行きたいという男性は稀だ。ところがタブノキを利用する男性達は家を出るとき、ワークマンスタイルでキャップを目深にかぶり、送迎車を庭に出て待っている。仕事へ行く気満々。そこに居るのは山へ行って薪を運ぶ働く男の姿だ。

 タブノキはデイサービスとしての機能もあるが、それは暮らしの中の一部の機能。収入源ではあるけれど、僕らは制度を使う人も使わない人もスタッフも地域の方も皆でチームとして用事をこなす。でもやりたくないことはやらない。

 山はどこも荒れている。放置されてしまった松林が台風やマツクイムシで無惨な姿になっている。そこにタブノキのお年寄り達は分け入っていく。お年寄りだけではなく子供達も。地域から来ている方も。丸太を転がし杉の葉を拾う。スタッフ達は夢中でシャッターを切る。

 料理もDIYも遊びも外出もタブノキではすべての用事がごく普通の暮らしの延長にある。それは関係が固定化してしまう、やる側される側という構図を徹底的に解体しているからこその姿。

 撮りためた写真は一日の終わりに全スタッフで共有し安心と興奮を共にする。

 僕らの日常はまるでアートだ、と思うことはある。けど日常がアートだと意識した瞬間にそれはわざとらしい人為的な副産物に成り下がる。アートに対し、消極的な態度の無自覚だからこそのアート。

 すべてのアートは暮らしの過去形なのでは?とすら思う。撮りためた写真を孔版印刷で印刷してもらい、自分達の手で撮影編集製本梱包まで仕上げ写真集を出版した。タイトルは「ともにいきる」。

 紡ぎ続ける日常がまるで音のない音楽のように、僕らの中に溜まっていく。