追憶「‘98アートパラリンピック長野」

第2回 「公募展」その1

実行委員長  内山 二郎

 1998年2月から3月「冬季オリンピック・パラリンピック」が長野で開催された折、市民が勝手に発案し実現した「‘98アートパラリンピック長野」。パラリンピックが障害者の「競技スポーツ」の可能性追求の場であるなら、障害を持つ人たちの絵画、書、陶芸、音楽、演劇など「芸術表現」における自己実現の場として「アートパラリンピック(以下アーパラ)」を長野で開いたらどうだろうと、パラリンピックを支えるボランティア・グループ「パラボラの会」の例会で仲間たちと盛り上がったのが発端であった。
 1997年4月17日「‘98アートパラリンピック長野」実行委員会を立ち上げた。設立総会には100人余りの市民が参加。代表に私が、副代表に4人が選出された。事務局には、長野県社会福祉協議会の職員7人が正式スタッフとして就いた。アーパラ全体を貫くコンセプト、具体的な企画、戦術に関しては容易にまとまらなかったが、当初予算18,550,000円を決定した(後に、これでは目指す取り組みが実現できないことが分かって必要額は3倍以上の68,000,000円に膨れ上がり、財団、企業などに助成金や協賛金を募ることになる)。

 例会は毎月、障害者アート運動を主宰する識者を招いて学習会を開き、多くの助言と激励をいただいた。「公募展」「企画展」「芸術祭」の3セクションに分かれてのミーティングでは毎回激しい話し合いが繰り広げられた。特に「公募展」では、「そもそも障害者ゲイジュツって何?」「ハンディキャップを持つ人たちの表現に甲乙、序列をつけることが出来るのか?」といった基本的な問題が議論になった。計画では 6月から公募を始める予定だったが、8月半ばにようやくアーパラ全体のキャッチコピー「魂は眠らせない」が決まり、やっと募集要項を発信すること運びになった。
 「世界初のアートパラリンピック」について全国紙、地方紙、TV、ラジオ、海外メディアなどが取り上げてくれたが、特に「公募展」の反応は芳しくなかった。公募開始から3カ月の11月に入っても作品の申し込みは50点余り。締め切りまで2カ月を切ったので、急遽対策委員会を立ち上げ、共同通信を通じて全国の地方版に掲載を依頼した。

 この間、審査委員の人選を進めた。審査委員長をお願いした画家の田島征三さんは、97年末から闘病生活に入り審査委員を辞退された。「障害をのりこえずに 制作してほしいと思います。障害を克服しないで すばらしい作品を作ってください」という病床から届いた田島さんのことばが「公募展」のコンセプトになった。12月末までに集まって応募作品は、
 43都道府県及びアメリカから総数1,153点。
 平面作品996点、立体作品157点。
 最年少5歳、最高齢81歳。
 知的障害63%、自閉症4%、身体障害17%、脳性麻痺8%、視覚障害3%、聴覚障害3%、重複障害2%、精神障害1%である。
 1998年1月20日、これらの作品を前衛芸術家:嶋本昭三氏、造形作家:西村陽平氏、絵本作家:はたよしこ氏の3名に審査していただき、入選103点(大賞3点、銀賞4点、銅賞5点を含む)が決定した。

次回は、入選した素晴らしい作品の数々を紹介しよう。

著者プロフィール

内山二郎
昭和18年、神奈川県生まれ。学生時代にベトナム戦争下の現地に赴く。マグロ船乗り、沖仲仕、鳶職、映画助監督、TVディレクターなどを経てフリージャーナリストに。地域福祉、高齢者問題、障害者福祉、国際理解、人権・男女共同参画、協働推進、地域づくりなどに関する執筆・講演などを務める。現在、長野県長寿社会開発センター理事長を務めている。

この連載の一覧へ