追憶「‘98アートパラリンピック長野」

第1回 概要(サマリー)

実行委員長  内山 二郎

 コロナ禍でまちに不安が広がる中、春の信濃路を「東京オリ・パラ」の聖火リレーが走り抜けた。中継されるテレビ映像を見ながら奇妙な違和感を覚えた。人々の動きは厳しく規制され、歓声を上げることも許されないこの息苦しさは一体何だろう。
 わたしは23年前の「‘98アートパラリンピック長野」を追想する。1998年2月から3月「冬季オリンピック・パラリンピック」が長野で開催された折、市民やボランティアが勝手に発案し企画・運営した“世界初”の「アートパラリンピック」の熱狂である。
 さまざまな障害を持つ人たち・一般市民・福祉関係者・企業人・商店主・高校生・大学生・教師・演出家・デザイナー・僧侶など準備の段階から参加したスタッフは約150人。3月1日から14日までの開催期間中「芸術祭」「公募展」「街角ミュージアム」に関わったボランティアの総数は1,100人にのぼる。

 芸術祭は3月1日に、長野オリンピック表彰式会場のセントラルスクエアを中心に沿道を含めて約3万人が参加してオープニングイベントを行ない、その夜、善光寺の本堂でスウェーデンの障害を持つゴスペル歌手レーナ・マリアと雅楽と僧侶による声明のクロスオーバーコンサートが催された。レーナさんのゴスペルの独唱に僧侶たちが手拍子で応える様子はテレビで全国に放映され話題を呼んだ。それは宗教の違いを超えて響きあい、人々の心に共感と癒しをもたらしたひとときであった。
 3月7日、「アートの力で 、地球に夢を」をテーマにオリンピックアリーナ・ホワイトリングで催されたスペシャルライブは、全国から6000人を超える観客が集まり、スウェーデン、ベルギー、アメリカ、セネガル、韓国、アメリカ、ベルギー、日本などで活躍する障害を持つアーティストたちが音楽やパフォーマンスで「いのちの輝き」を競演した。

 公募展には、全国43都道府県とアメリカから1,153点の絵画・造形などの作品が寄せられた。闘病のため審査委員長を降板された田島征三氏が、病床から我々に発した「障害をのり越えずに…障害を克服しないで…」というメッセージは、アートパラリンピックの重要なコンセプトになった。入選作品103点は長野県信濃美術館に展示。3月6日から14日の期間入場者は8,000人を数え、美術館の記録を塗りかえた。高い評価を得た受賞者の中には、その後各地で活躍している人も多い。
 実行委員会では、地元市民による「街かど賞選者百人衆」を募り、応募作品の中から作品130点を選んで長野市内の約100店舗のショウウインドウなどに展示した。これは障害を持つ人たちのアートを多くの人に知ってもらう絶好の機会になった。

 この他「街かどミュージアム」として、たんぽぽの家と日本障害者芸術文化協会による企画展、「さおりひろば」の作品展示と体験コーナー、「風の工房」作品展などが市内のアートスペースや喫茶サロンなどで行われ多くの人を集めた。
 長野の地で世界で初めて開かれたアートパラリンピックは、オリジナルのアートパラリンピック旗と共に「シドニー・パラリンピック・2000」組織委員会に引き継がれた。

 このよう書いてくると、順調に進んだムーブメントのように見えるが、企画から実行にいたる1年余りの道のりは決して平坦ではなかった。障害者アートのとらえ方、目指す方向性、方法、作品の評価をめぐる視点は、個人、施設、グループ、団体によってそれぞれ異なり、その度に激しい議論が巻き起こった。わたしは、いたるところで生じた衝突や一つひとつの議論の過程こそが、関わった人々にとって貴重な気づきと学びの経験になったと思う。
 実行委員長としては、務めて(ここが問題!!)どの宗派も受け入れる「善光寺精神」で当たることにした。立場の違い、主義主張の違いを認め合うことこそが「豊かな多様性」と「共生」をキーワードにしたアートパラリンピックにふさわしいと考えたからである。

 次回からは「芸術祭」「公募展」「街角ミュージアム」のそれぞれの現場で、それぞれのスタッフが何を考え葛藤し、どんな成果や気づきが生まれたか記してみたい。

著者プロフィール

内山二郎
昭和18年、神奈川県生まれ。学生時代にベトナム戦争下の現地に赴く。マグロ船乗り、沖仲仕、鳶職、映画助監督、TVディレクターなどを経てフリージャーナリストに。地域福祉、高齢者問題、障害者福祉、国際理解、人権・男女共同参画、協働推進、地域づくりなどに関する執筆・講演などを務める。現在、長野県長寿社会開発センター理事長を務めている。

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