僕が障がいのある人の表現にドハマったわけ

第5回 存在そのものがアートなヒト

 障がいのある人5名と自分の家族とが実験的に小規模で共同生活をすることを目指してスタートした「風の工房」では通ってくる人が多くなり手狭になってきて、僕はかりがね福祉会のバックアップと、上田市に合併する前の真田町の親の会の応援のもと、『作業なんかしないアートする作業所』?といううたい文句でOIDEYOハウスという共同作業所を2001年に開設した。またその後、精神障害の人が憩う「憩いの家」を、さらに2005年「アトリエFuu」と障害のある人の通所する施設を開設していった。いずれも障害のある人の日中活動の場が求められていたからでもあり、関個人としてはもっとユニークな表現をする人に出会いたい、という下心があったからでもある。仲間たちの表現に強く関心をもち、面白がる若いスタッフも集まってきた。


 関さんが開所した施設たち

 SIMAさんは《存在そのものがアートなヒト》だった。前回紹介した内山さんと同じグループホームに暮らし、風の工房に通ってくるようになった。でも内山さんのように完成度の高い作品はなかなか作れなかったが、結構内山さんを意識して粘土でお面を作ったり、とげとげのあるサボテンみたいなユニークな造形作品を作ったりし、自分なりの作品を生み出していた。絵を描くことが苦手だという意識もあってか、広告にある商品を薄い紙でトレースするようになり、それがそのうちどこからか拾ってきたエロ雑誌の中のヌード写真や、女性下着のチラシをトレースしたりし始めた。本人は忠実にトレースしているつもりらしいが、あてがっているトレース紙はズレてしまう。さらに油性ペンで色を付けていくと、それはもはやSIMAワールドだ。

 

 SIMAさんは2001年に開設されたOIDEYOハウスに移ったが、そこでも彼の創作意欲はますます盛んになっていく。僕らはSIMAさんを“トレースアートの達人”と呼んだ。来訪者を捕まえては「ちょっとお、顔カチテ(貸して)」と舌足らずの言葉を投げかけて、トレーシングペーパーを相手の顔にいきなり押し付けて、それを油性ペンでなぞっていく。また「足カチテ」と相手の足を裸足にして紙の上に置いてもらいその足型をトレースしていく……と何ともユニークなことをしでかすのだ。そして「ハイ、コレオミヤゲネ」と言って相手に手渡してニコニコだ。その風景はあっけにとられている来訪者と彼の間になんとも言えない空気が生まれている。SIMAさんなりの豊かなコミュニケーションの一つのカタチだ。


 

 そのうちSIMAさんはOIDEYOハウススタッフのMomoちゃんに恋をする。「ケッコンチテ」と迫るがMomoちゃんは「SIMAさんのこと好きだけど、結婚はできません」とかわしていく。いじけるSIMAさんだがなんとも憎めない。さらにSIMAさんは国語ノートのマス目を「も」の字で埋め尽くした。何冊も何冊も。そして目につくもの何にでも「も」の字を書きまくる。具合が歩くて何日もOIDEYOハウスを休んでいる間も、ホームの自室で書き続け、紙に書き尽くした挙句、自分の両腕や両足に「も」の字を書いていた。僕らはSIMAさんの叶わぬ恋の切なさをくみ取りながらも、ユニークな「もももラブレター」シリーズを楽しんでいた。またSIMAさんは自分の作業机や、椅子などカラーテープで飾ることをし始め、OIDEYOハウスの作品展ではスタッフの佐々木良太君の叩くジャンベのリズムに乗ってライブペインティングならぬライブテーピングショーまで披露したのだ。また不要になった襖をもらってきて、そこにトレースアートの作品や「ももも」の作品を張り付け、それをカラーテープでぐるぐる巻きにする、というかっこいい作品も作り、あちこちで発表した。


 

 OIDEYOハウスや風の工房の若いスタッフたちは、陰でSIMAさんやほかの仲間たちの表現をサポートし、それらの表現をオモシロがり、自分たちだけで面白がるのはもったいないと、いろんなところに作品を紹介する努力をしていたことは忘れてはならない。そしてスタッフ間では『僕らは指導しない、教えないを原則とし、あくまでその人が表現したくなるようなサポートに徹する。そのヒトの表現をオモシロガル。』ということを確認しあっていた。


 SIMAさん

 しかし、SIMAさんはおそらく静脈瘤が原因だと思われるが、ある日突然に逝ってしまった。僕らはその突然さに呆然としたのだが、ホームのある地域の公民館でSIMAさんを偲ぶ会が開催されたとき、もともとホームは地域に開かれており地域のいろんな人が普段ホームに出入りしていたため、子供からお年寄までたくさんの人が集まってきた。しかし、その会は悲しみに暮れるどころか笑い声が沸き上がり、「SIMAさんておもしれえ人だったよなあ」とSIMAさんをめぐるエピソードがたくさん語られ、それらはおかしくて、笑えてしまうことばかり。僕ら支援者の知らないところで、SIMAさんは地域のいろんな人とつながっていたことを改めて知った。彼が残した作品を地域の人が見ながら、改めてSIMAさんの人柄をしみじみ偲んだのだ。まさに存在そのものがアートなヒト。作品はだいぶ無くなってしまい、画像もあまり残っていないけど、僕らの心にはニコニコと「Momoチャンスキ」「カオカチテ」というSIMAさんが作品と共に今も生きている。  
≪つづく≫

著者プロフィール

関孝之
1954年生まれ。社会福祉法人かりがね福祉会で勤務しているときに「風の工房」を開設して障害者の表現活動支援を始める。アートパラリンピック長野の実行委員、スペシャルオリンピックス長野県大会のアートディレクターを務め、2014年からは、NPO法人ながのアートミーティング代表として障害者のアート活動を応援する活動に専念し、出前アートワークショップやアートサポーター養成講座などを行っている。信州ザワメキアート展実行委員長。

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