軽井沢千住博美術館で「ラッタラッタルのしごと」開催

軽井沢のアトリエで日々障がいのあるクリエイターによって生み出される原画をもとに、ミュージアムショップ、旅館、百貨店との取り組み、洋服や食器、文具などの多種多様なおr時なるプロダクトを通し、その世界観を広げている「RATTA RATTARR」。本展では、RATTA RATTARRの本質である独自の創作方法“クリエイター(障がい者)とアトリエリスタ(支援者)がそれぞれの役割を担い、描いた原画をデザインに応用する”活動の奇跡を多角的に紹介します。

この街学園作品展「Hello!Everyone!!」開催

「この街学園」は、茅野市金沢にある生活介護事業所です。30名の知的・精神・身体に障がいがある人と、その方にあった日中活動を行っていますが、その一つに「アートの時間」があり、月に3~4回、それぞれに好きな材料を使い、思い思いのやり方で、自由に創作活動をしています。

本展は、創作活動から生まれてきた、自由でのびのびとした個性あふれる表現の数々を展示する、この街学園では初めての作品展です。

[展示作品]

Gallery Wall|守谷慶彦 増沢宏和 小松雄一 永田晴樹 鈴木陽太 平出洋平 西尾よしゑ 坂本三佳 小林大樹 ほか
Floor Table|佐藤冬樹 佐藤出 山川仁希 ほか

[関連イベント]

ギャラリートーク「アートは日常の中にある」
個性あふれるメンバーがそろう「この街学園」の日常をアートな視点でディープに語る120分。

日時|2021年6月5日(土)16:00~18:00
会場|アノニム・ギャラリー
出演|飯田施設長、アート担当鈴木、アノニム・ギャラリー赤松さん
定員|8名(予約制)
※入場者の健康チェック、検温、消毒、換気の徹底いたします。

上田の街中に地域NPOが担う「子ども若者」のための総合文化部が生まれます!

うえだイロイロ倶楽部

このコロナ禍、上田市で「雨風をしのげる場(のき)」を街中につくったり、再発見して、暮らしの中に「のき」を広げていこうという活動「のきした」が生まれました。うえだイロイロ倶楽部はそんな活動の一つとして始まる、子どもや若者を対象とした地域における民間のクラブ活動です。やりたいことを自らが発見し、自らの意思で文化・芸術活動に取り組み、年代や障がいの有無に関わらず、お互いに創造性や社会性を学びあっていきます。

演劇・文芸・音楽・美術・将棋・冒険・映画のジャンルからオリエンテーションを経て、自分の好きなものを選んでください。

先生は基本的にいません。その代わりファシリテーターと呼ばれる、皆さんのやりたいことを一緒に考えるスタッフと活動します。そして、私はこれが得意だよという専門家の人が。時々みんなのやりたいことを実現するためのお手伝いをしに来てくれます。

[申込み]

▽応募対象者|長野県東信地区の6〜18歳までの子ども・若者
▽申込み|事務局(一般社団法人シアター&アーツうえだ)
 メール iroiro@sainotsuno.org
 応募フォーム
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfCDqZdgp76FSeKSla0JRUhSWhmbxUFCQZPTnwWzb_Iv0coYg/viewform
 郵送 〒386-0012上田市中央2-11-20 犀の角「うえだイロイロ倶楽部事務局」宛
▽締切|5月17日(月)

[2021年のスケジュール]

・4月26日 参加者募集開始
・5月19日 オリエンテーション(前期)
・5月26日 おためしワークショップ(前期)
・6月    クラブ活動開始
・10月   前期発表会(予定)
※後期も同様に募集予定です。

[スペシャル講師]

・月影瞳(元宝塚歌劇団星組・雪組トップ娘役)
・石川直樹(写真家・冒険家)
・上田假奈代(詩人・釜ヶ崎芸術大学)
・野村政之(劇団青年団・ドラマトゥルク)
・清水洋幸(一社あそび心BASEアフタフバーバン信州理事)
・武捨和貴(NPO法人リベルテ代表理事)
・直井恵(切り絵作家・NPO法人アイダオ・NPO法人上田映劇理事)

[活動情報]

▽参加費|入会金(お子様お一人):2,000円/月額参加費1,500円
▽活動場所|犀の角(上田市中央2-11-20)、グランピア(上田市常田3-2-25)、上田映劇(上田市中央2-12-30)
▽通常活動:週1回(17:00〜19:00)
▽スペシャルデイ:2カ月に一度
▽事務局|一般社団法人シアター&アーツうえだ(担当:伊藤、村上、石坂)Tel.0268-71-5221(火〜金曜13:00〜19:00)、メールiroiro@sainotsuno.org

厚生労働省が「令和3年度障害者芸術文化活動普及支援事業」において、令和3年度の「広域センター」と「連携事務局」を公募!

芸術文化は、多様な価値を尊重し、他者との相互理解を進めるという機能を有しており、芸術文化活動は、障害者の自立や社会参加を促進する上で、重要な活動の一つです。

「障害者芸術文化活動普及支援事業」とは?

障害のある方が芸術文化を享受し、多様な活動を行うことができるよう、地域における障害者の芸術文化活動を支援する体制を全国に普及し、障害のある方の自立と社会参加を促進することを目的とした、厚生労働省の取り組みです。

平成29年度から取り組んでいる本事業においては、さまざまな障害者が芸術文化を享受し、多様な活動を行うことができるよう、地域における障害者の芸術文化活動を支援する体制を全国に普及し、障害者の芸術文化活動の振興を図るとともに自立と社会参加の促進に取り組んでまいりました。

現在、本事業において全国の都道府県が設置する「障害者芸術文化活動支援センター」をサポートする7ブロックの「広域センター」と、全国のとりまとめを行う「連携事務局」を公募しています。

「風と太陽」でワークショップ開催

駒ヶ根市の障がい者支援施設「長野県西駒郷」で行っているアトリエです。毎月第二土曜日に開催します。何らかの障がいを持つ方で、西駒郷に関係のない方でも自由にアート活動を行うことができ、スタッフが制作をサポートいたします。

【対象】 知的、身体、精神、発達など何らかの障がいを持つ方で、小学生以上。

  • 参加に関して迷われる場合はお気軽にご連絡ください。
  • 昼食が必要な場合はご持参ください。
  • 施設の都合などで第二土曜日に開催できない場合は事前に連絡いたします。

第2回 「公募展」その1

実行委員長  内山 二郎

 1998年2月から3月「冬季オリンピック・パラリンピック」が長野で開催された折、市民が勝手に発案し実現した「‘98アートパラリンピック長野」。パラリンピックが障害者の「競技スポーツ」の可能性追求の場であるなら、障害を持つ人たちの絵画、書、陶芸、音楽、演劇など「芸術表現」における自己実現の場として「アートパラリンピック(以下アーパラ)」を長野で開いたらどうだろうと、パラリンピックを支えるボランティア・グループ「パラボラの会」の例会で仲間たちと盛り上がったのが発端であった。
 1997年4月17日「‘98アートパラリンピック長野」実行委員会を立ち上げた。設立総会には100人余りの市民が参加。代表に私が、副代表に4人が選出された。事務局には、長野県社会福祉協議会の職員7人が正式スタッフとして就いた。アーパラ全体を貫くコンセプト、具体的な企画、戦術に関しては容易にまとまらなかったが、当初予算18,550,000円を決定した(後に、これでは目指す取り組みが実現できないことが分かって必要額は3倍以上の68,000,000円に膨れ上がり、財団、企業などに助成金や協賛金を募ることになる)。

 例会は毎月、障害者アート運動を主宰する識者を招いて学習会を開き、多くの助言と激励をいただいた。「公募展」「企画展」「芸術祭」の3セクションに分かれてのミーティングでは毎回激しい話し合いが繰り広げられた。特に「公募展」では、「そもそも障害者ゲイジュツって何?」「ハンディキャップを持つ人たちの表現に甲乙、序列をつけることが出来るのか?」といった基本的な問題が議論になった。計画では 6月から公募を始める予定だったが、8月半ばにようやくアーパラ全体のキャッチコピー「魂は眠らせない」が決まり、やっと募集要項を発信すること運びになった。
 「世界初のアートパラリンピック」について全国紙、地方紙、TV、ラジオ、海外メディアなどが取り上げてくれたが、特に「公募展」の反応は芳しくなかった。公募開始から3カ月の11月に入っても作品の申し込みは50点余り。締め切りまで2カ月を切ったので、急遽対策委員会を立ち上げ、共同通信を通じて全国の地方版に掲載を依頼した。

 この間、審査委員の人選を進めた。審査委員長をお願いした画家の田島征三さんは、97年末から闘病生活に入り審査委員を辞退された。「障害をのりこえずに 制作してほしいと思います。障害を克服しないで すばらしい作品を作ってください」という病床から届いた田島さんのことばが「公募展」のコンセプトになった。12月末までに集まって応募作品は、
 43都道府県及びアメリカから総数1,153点。
 平面作品996点、立体作品157点。
 最年少5歳、最高齢81歳。
 知的障害63%、自閉症4%、身体障害17%、脳性麻痺8%、視覚障害3%、聴覚障害3%、重複障害2%、精神障害1%である。
 1998年1月20日、これらの作品を前衛芸術家:嶋本昭三氏、造形作家:西村陽平氏、絵本作家:はたよしこ氏の3名に審査していただき、入選103点(大賞3点、銀賞4点、銅賞5点を含む)が決定した。

次回は、入選した素晴らしい作品の数々を紹介しよう。

第1回 概要(サマリー)

実行委員長  内山 二郎

 コロナ禍でまちに不安が広がる中、春の信濃路を「東京オリ・パラ」の聖火リレーが走り抜けた。中継されるテレビ映像を見ながら奇妙な違和感を覚えた。人々の動きは厳しく規制され、歓声を上げることも許されないこの息苦しさは一体何だろう。
 わたしは23年前の「‘98アートパラリンピック長野」を追想する。1998年2月から3月「冬季オリンピック・パラリンピック」が長野で開催された折、市民やボランティアが勝手に発案し企画・運営した“世界初”の「アートパラリンピック」の熱狂である。
 さまざまな障害を持つ人たち・一般市民・福祉関係者・企業人・商店主・高校生・大学生・教師・演出家・デザイナー・僧侶など準備の段階から参加したスタッフは約150人。3月1日から14日までの開催期間中「芸術祭」「公募展」「街角ミュージアム」に関わったボランティアの総数は1,100人にのぼる。

 芸術祭は3月1日に、長野オリンピック表彰式会場のセントラルスクエアを中心に沿道を含めて約3万人が参加してオープニングイベントを行ない、その夜、善光寺の本堂でスウェーデンの障害を持つゴスペル歌手レーナ・マリアと雅楽と僧侶による声明のクロスオーバーコンサートが催された。レーナさんのゴスペルの独唱に僧侶たちが手拍子で応える様子はテレビで全国に放映され話題を呼んだ。それは宗教の違いを超えて響きあい、人々の心に共感と癒しをもたらしたひとときであった。
 3月7日、「アートの力で 、地球に夢を」をテーマにオリンピックアリーナ・ホワイトリングで催されたスペシャルライブは、全国から6000人を超える観客が集まり、スウェーデン、ベルギー、アメリカ、セネガル、韓国、アメリカ、ベルギー、日本などで活躍する障害を持つアーティストたちが音楽やパフォーマンスで「いのちの輝き」を競演した。

 公募展には、全国43都道府県とアメリカから1,153点の絵画・造形などの作品が寄せられた。闘病のため審査委員長を降板された田島征三氏が、病床から我々に発した「障害をのり越えずに…障害を克服しないで…」というメッセージは、アートパラリンピックの重要なコンセプトになった。入選作品103点は長野県信濃美術館に展示。3月6日から14日の期間入場者は8,000人を数え、美術館の記録を塗りかえた。高い評価を得た受賞者の中には、その後各地で活躍している人も多い。
 実行委員会では、地元市民による「街かど賞選者百人衆」を募り、応募作品の中から作品130点を選んで長野市内の約100店舗のショウウインドウなどに展示した。これは障害を持つ人たちのアートを多くの人に知ってもらう絶好の機会になった。

 この他「街かどミュージアム」として、たんぽぽの家と日本障害者芸術文化協会による企画展、「さおりひろば」の作品展示と体験コーナー、「風の工房」作品展などが市内のアートスペースや喫茶サロンなどで行われ多くの人を集めた。
 長野の地で世界で初めて開かれたアートパラリンピックは、オリジナルのアートパラリンピック旗と共に「シドニー・パラリンピック・2000」組織委員会に引き継がれた。

 このよう書いてくると、順調に進んだムーブメントのように見えるが、企画から実行にいたる1年余りの道のりは決して平坦ではなかった。障害者アートのとらえ方、目指す方向性、方法、作品の評価をめぐる視点は、個人、施設、グループ、団体によってそれぞれ異なり、その度に激しい議論が巻き起こった。わたしは、いたるところで生じた衝突や一つひとつの議論の過程こそが、関わった人々にとって貴重な気づきと学びの経験になったと思う。
 実行委員長としては、務めて(ここが問題!!)どの宗派も受け入れる「善光寺精神」で当たることにした。立場の違い、主義主張の違いを認め合うことこそが「豊かな多様性」と「共生」をキーワードにしたアートパラリンピックにふさわしいと考えたからである。

 次回からは「芸術祭」「公募展」「街角ミュージアム」のそれぞれの現場で、それぞれのスタッフが何を考え葛藤し、どんな成果や気づきが生まれたか記してみたい。

第2回 明るい展望が見えたとき

 風の工房の在り方に思い悩んでいたころ、1994年奈良県にあるたんぽぽの家を中心に『日本障害者芸術文化協会』(のちに『エイブルアート・ジャパン』となる)という団体が設立された。障害のある人の表現をアートとして評価を高めていこう、アートを切り口に福祉のありよう、そしてこの地域社会のありようを変えていこうという趣旨が謳われていた。誘われるままに入会し、そこから送られてくる情報からは、ヨーロッパでは精神障害のある人のアートが現代アートの作家にかなり影響を与えているとか、日本国内のあちこちの取り組みなどが伝わってきた。そして風の工房の余暇時間などで何気なく仲間が描いていた絵と、あちこちで評価を得ている作品とどこがどう違うのだろうか? いやなかなか仲間の表現したものも十分いけてる、と単純な僕は思ったのだった。その年たんぽぽの家で開催された障害のある人のアート活動を支えるためのワークショップに参加し、様々な考えや取り組みを学び、つながりもできて、持って帰ってきたものを風の工房のこれからの活動に取り入れ、アート活動をメインにしようと確信したのだった。

 それまでの僕は障害のある仲間の表現したものは、稚拙な表現であり、発達年齢の低い段階の表現として見ていたのだった。それは当時自分が発達心理学の専門書を読み漁っていたこともある。また、芸術、美術、アートという世界は、まさに学校時代の美術教育で刷り込まれたあの教科書の世界であり、表現技術を極めたうえで見られる有名な作品こそがアート、特別な世界のことだと思い込みをしていたのだ。僕自身が従来の美術の枠組みに囚われていたのだ、仲間たちの表現する世界もアートだと言っていいんだと、気付いた時だった。

 粘土の作業場でのデキゴト、そして日本障害者芸術文化協会から得たものは、思い悩んでいた僕に、風の工房の日々の活動のメインにアート活動を据えようと決心させたのだった。それからというもの風の工房の収入を目的とした、いわゆる作業活動を徐々に減らし、アート活動(以後表現活動という言葉にする)を一人一人の仲間にあったものを考え、提供し、仲間が興味を示さなければまた別の手を考え……と、個別に表現活動の在り方を手探りで探していった。いつの間にかアートザンマイの毎日となっていたのだ。(続く)

第1回 つらつら振り返って

 『なんで、あなたは障害のある人のアート活動を始めたの?』という質問をよく受ける。しかし、だんだんと記憶が薄くなって、『さていつから?』『どうしてだっけ?』が曖昧になっている。まあ、その前に、なんで僕は障がい者福祉の仕事に足を踏み入れたのかから始めなければならないかもしれないが、そのことはいずれ触れることにする。

 今から30年ほど前、僕は職員として所属していた社会福祉法人かりがね福祉会のバックアップのもと、障がいのある人5名と自分の家族とが実験的に小規模で共同生活をする『風の工房』を開設し、活動をはじめた。当初はパンの製造販売、農作業、陶器の製作などを通じ、それぞれの活動において、障がいのある仲間とそれぞれにできることを協力しあっていくことで、いずれはその集団として自立した生活を実現しようと夢見ていた。しかしそんなに甘くはない。収益はさほど上げられるわけもなく、次第に僕は仲間たちに『きちんとやって!がんばって!これじゃあ売れない!』といった言葉を投げかけるようになり、対等な関係、と言いつつ現実はひどい上から目線で仲間を見ている自分になっていった。日中だけ『風の工房』に通ってくる仲間も増えていたこともあるのだが、『こういう状態って自分が望んだことなの?』と自問自答する日々が続いた。何より仲間たちが僕の顔色をうかがうようにもなり、これじゃあ僕は独裁者じゃん。この小さい集団として自立することばかり求めていて気が付いたら間違った方向に走っていたのだ。

 ある日のこと、粘土の作業場でお皿や小鉢とかの器を作っていたのだが、それはどう考えても売れるシロモノじゃあないと、ぶつぶつと文句を言って、仲間が作っていた器をつぶしていた。仲間たちはそんな僕の顔色を窺っている。その時の彼らが作るそのいびつな形は本当にいけないのか? それは僕自身が売れるものとはこんなもの、という勝手なイメージを持っていたからであり、なんと狭量な考えだろうかとふと考えた。ちょうどその時、僕は画家の田島征三さんが滋賀県の信楽青年寮に入り込んで、そこで生まれる粘土の造形を高く評価して本にした、『ふしぎのアーティスト』という本を読み始めたときだったのだ。田島さんは青年寮でそこの寮生さんが作り出したものを、職員がいびつだとか売れそうもないからと評価していなかった現場を見て、これこそがおもしろいカタチだし、アートとして素晴らしいと職員さんたちに伝えて以来、素晴らしい造形作品が生まれ始めたことを書いている。全く僕がやっていたことを指摘されたように思い、鈍い自分の頭を殴られたようだった。

 『こんなつまらない粘土はやめようか。』と何気なく仲間に伝えたところ、彼はうんうんと頷いて、その作業場を出ていってしまった。僕の勝手な価値基準を彼らに押し付けていたことを痛烈に問われた瞬間である。その場に残された僕はしばらく呆然としていた。このジケンは今でも鮮明に思い出される風景なのである。第2回目につづく

※『風の工房』では障がいのある人を仲間と呼んでいたが、今の時代なら利用者と言われ、職員は支援者と言われる。支援者と利用者の関係……どこか違和感を持つ僕である。

みんな合わさって生きている~多様性のおはなし~

 2020年4月より、信州に暮らしはじめました。「ただ信州で暮らしてみたい」それだけで。10 年くらい想いを膨らませて、やっとタイミングが来たので、はじめました。今まで活動してきたことを継続していきたい想いは、基本的にありましたが、もしかして、何か新しいものに気づいて変わるかもしれない。そんな、風の吹くままに…半年ほどしたころ、西駒郷さんやリベルテさんの作品展へ行く機会がやってきました。(障がいのある方々が表現する作品展)作品を見はじめると、自分の心がこんなにときめくものか、と驚きました。今までも、さまざまな人の作品には出会ってきたけれど、自分の心をいったんリセットしていたこともあってか、とても素直に「ただ好き」なんだ、ということに気づきました。新しい暮らしの中でも、継続して活動していこうという想いに至ったのでした。

 私は、15年以上、障がいのある人たちとのものづくりの周辺にいます。アトリエ活動や展覧会の企画、商品づくり・販売など。その根底にあるのは、言葉にすると「多様性」なのですが、自分の生きる社会・世界が居心地よくなるように、続いていくように、という想いがあります。もはや、その動きは、気づけばやっている“ライフワーク”となりました。想いに説明をつけてじっくりと動く性格ですが、基本的に「ただ好き」なことをしている人だ、とも思います。今回「ただ好き」という感情に出会い、それでいいんじゃないか、という気持ちになりました。意味を追求せずとも、「ただそこにある」ことを大切にしたい、という気持ちになりました。

 暮らす場所を変えてみて気づいたことの中にも同じようなことがあります。周りの環境が変わると、今までの当たり前も変わるので、自分に蓄積されているものに、改めて気づきます。自分に「ただある」もの。つまり、自分の役割という感じでしょうか。それは、どんな人にも、どんな生き物にも、あてはまることだと思うのです。「自然も生き物も自分も、みんな合わさって生きている」と思うのです。自分の得意を活かしながら補い合う。私は、その一部。絵が得意な人、苦手な人。お話が得意な人、苦手な人…私は、というと、絵は描けない、話もうまくない…「ただ好き」を多くの人たちに紹介したり、共有したりしたくて、「私はこう想うけど、みなさんどうですか?」をしていること。人・モノ・コトを繋いでいくこと。それしかありませんが、そんな自分も、どこかの何かの一部になれていたらうれしい。そう想うのです。